実感を話すということ

とっても久しぶりの投稿です。

あぁ綴りたいなぁということは日々あぶくのように現れては消えていくけれど、ようやく書く時は現実逃避気味という情けなさ。

 

誰も彼もがSNSをやっている世の中で、さまざまな物事にまつわる実感を聞くことは、それ以前よりもたやすくなっているように思える。わたし自身、自分の知りたいことについて、本当のところそれにふれたら人はどう感じるのか、と不安に思うと、真っ先に検索している。そして、湯水のように他人が述べる実感とされるものを摂取したのち、しかしはたと、もしかしたらこれは、それぞれが自分の立場を肯定するために好きに言ってるだけのことを、実感と受け取ってしまってるだけなんじゃないだろうか、と思い直す。向かい合った特定の個人であれ、不特定多数のネットの人々であれ、人前で実感を話すことは、実は難しい。そこにはすでに、自分と他人という関係性が持ち込まれていて、その相手にどう思って欲しいのか、その相手とどういう関係になりたいのか、という要素が入り込んでいる。そのうえでフェアに「本当に感じたこと」を話してくれる、信頼の置けるバランス感覚を持った人となると、実はごく少数なのではないだろうか。・・・

(津村記久子「読書日記」2016年6月28日毎日新聞夕刊)

この書き出しで始まる文は、「森下えみこさんはおそらく、そのごく少数の一人である。」と続き、著書『40歳になったことだし』を紹介する。見出しは「軽やかで風通しがよい言葉」

 

こうしてブログに文を綴っておいてナンだけど、そう、自分の実感を、そのまま明かすのって難しい。ネットで伝える手段は出来たけれど、文章として表すことにまずハードルがある。そのまま表すかというと、きっと匿名でだって、「読む人にどう思われたいか」という要素は入り込む。表したいという気持ちも、湧いてくる人、あるいは湧いてくる事柄がある。たいていは埋もれている。誰かが聞いてくれれば、表せることがあるかもしれないけれど、津村さんが書くように、誰が、どのように聞いてくれるのかに関わる。

自分の胸のうちに抱えた、はっきりと像を結ばない実感が、その時々に開いた窓の形ごとに姿を現す。きっと、できるだけそのまま現すことが出来たのなら、できるだけそのまま現したものに触れられたのなら、少しだけ風通しがよくなる。