開かない扉を叩き続ける音

6月、ようやくリニューアルオープンした東京都現代美術館へ。

急ぎ足でボリュームある2つの企画展を見て回るなかで、目がとまり、ベンチに腰を下ろしたまま動けなかった映像があった。

それは、ヂョン・ヨンドゥ《古典と新作》2018。

昨年秋、休館中に街中で作品を展示するMOTサテライトの時、ある民家で上映されていたのを覚えている。でもその時は、ちらっと目をやるだけで足早に通り過ぎた。 

美術館の暗い一角で、3面のスクリーンに交互に映し出されるのは、小学校の子どもたち、深川江戸資料館での落語の公演、川の流れ・・・いくつもの町のシーンだ。そのなかで、よく見知った資料館通りの中心人物である商店主の語りに胸をつかれた。

戦争の体験を語っていた。空襲の時、区役所(いまの深川江戸資料館)に逃げ込んで助かったこと。少しすると大人が扉を閉めたこと。扉のすぐ側にいたから、外からドンドンと叩く音が聞こえていたこと。でも、大人は開けてはいけないと言ったこと。落ち着いてから扉を開けると、そこには焼けた人たちが倒れていたこと。もし扉を開けていたら、火は中まで入ってきて、中にいた人も助からなかっただろうこと。

街角に置かれたベンチに腰かけ、普段の穏やかな表情と淡々とした口調のまま、語っていた。でも、とてもとても重く苦しい話だった。

多くの人が亡くなったことも、苦しくひもじい思いをしたこともそれは辛いことなのだろうけれど、助かる人と助からなかった人を分ける境目のようなもの、それが一番辛いのではないかと思った。扉を叩き続ける音。それでも開かない扉。

もしかしたら、今もどこかで扉を叩く音がしているのかもしれない。聞こえていないだけで。耳を傾けていないだけで。叩き続けても開かない扉。扉の中の人を守るために。叩く音とそれでも扉を開けられない場面が、極限で、はっきりとした形で現れるのが、戦争なのだろうか。