映画『小名木川物語』が映すもの


小名木川物語 予告編 (2019)

 

この映画は、撮影の間、この街に流れていた時間を映し出している。

 

物語は春から夏、秋、そして春が来るまでの1年の間。

桜が咲き、夏が近づくと朝顔市、灯篭流し、お神輿。

秋には美楽市、酉の市、町のそこここでお餅つき、そして春が来て桜が咲く。

この映画は、この街に巡る季節を映し出している。

 

この映画は、この街に刻まれた記憶を映し出している。

小名木川がまっすぐ流れる理由。空襲による痛ましい犠牲。

 

この映画は、出来上がった後に流れた時間を思い起こさせる。

今はない場所。もうここにいない人。

 

この映画の物語は、この街で出会った2人が、ともに過ごす間に変わっていく。

 

この街で生きている今日が愛おしい。

誰かとともに過ごす今日が愛おしい。

誰かと出会うかもしれない今日が愛おしい。

 


 映画『小名木川物語』公式サイトには、撮影秘話もつづられています。

この映画が、さまざまな出会いと偶然によって織り成されたことが伝わってきます。

http://onagigawa.com/

『負債論』を読むメモ(1)友人にお金を貸してはいけない理由

いまさらだけど2020年の年明けからデヴィッド・グレーバー著『負債論』を読んでいる。日本語訳は2016年11月でずいぶん話題になって、そのあとに出た本でも引用を見かける。厚さ5.5センチの鈍器本である。

 

「第五章 経済的諸関係のモラル的基盤についての小論」を読んでいる時に思ったこと。

 

よく、友達にお金を貸してはいけない、関係が壊れるから、と言われる。

その理由は、友人は負い目に感じて、それまでのような気兼ねのない関係ではなくなってしまうからだろうし、さらに友人が返せなかったら、連絡をとらず顔を合わせないようにするしかなくなってしまうからだろう。

 

でも、この章を読むなかで理由に一つ加わった。

もはや対等でないとする対等な者たちのあいだの合意こそ負債の本質(180ページ要約)

であるがゆえに、

負債が帳消しにされるとき、そのとき、対等性が回復され、なおかつ、二人は背をむけ、関係も解消される。(183ページ)

だとすれば「友人が返したとしても、友人関係は終わる」。

ただし、注にはこう記されている。

たとえば、お金に困っている友人を助けたいが、彼女に恥をかかせたくないとしよう。たいていの場合、お金を渡し、それが貸しであると主張することが、いちばんかんたんな方法である(そして双方ともに、そんなことがあったことを都合よく忘れてしまう)(668ページ)

でもお金を貸せば、友人ではなくなってしまうかもしれないが、お金を貸さずに見捨てたら、それは既に友人ではない。そこで「忘れる」という方便が登場する。

 

ただ、互いに忘れたふりをすることで当面はやりすごせそうだけれど、肝になるのは、お金に困っている立場が入れ替わった時ではないか。

「あの時貸したお金、返して」と言いたくなりそうだけど、それで渡すと関係は終わってしまいそう。借りていた方が「遅くなったけれど返すね」と言い出すのも同じく。

『「その日暮らし」の人類学』(小川さやか著)には、タンザニア都市部の友人関係のなかでの貸し借り模様が紹介されている。

それによると、友人への貸しは「忘れはしないけれど取り立てもしない」。相手は「返すといいながら返しはしない」。自分が困っても「取り立てずに別の友人から借りる」。さらにたまたま困っている時に相手と出くわしても「取り立てるのではなく借りる」。

 

貸し=贈与に近く、友人=借りることができる相手、に近い。その友人は別にお金持ちでなくてもいい。その人もまた誰かから借りて、貸すのだから。

良き友人=困ったときにカネを貸してくれる友人は、たくさんの人間にカネを借りることができる友人なのだ。(197ページ)

「友人にはお金を貸さない方がいい社会」と「友人とはお金を貸してくれる人である社会」、2つの社会は不確実性だったり流動性だったり、さまざまな要素が正反対だからこそベクトルが逆になる。2つの間の転換はどう起こるのだろうか。

映画『小名木川物語』が映すもの


小名木川物語 予告編 (2019)

 

この映画は、撮影の間、この街に流れていた時間を映し出している。

 

物語は春から夏、秋、そして春が来るまでの1年の間。

桜が咲き、夏が近づくと朝顔市、灯篭流し、お神輿。

秋には美楽市、酉の市、町のそこここでお餅つき、そして春が来て桜が咲く。

この映画は、この街に巡る季節を映し出している。

 

この映画は、この街に刻まれた記憶を映し出している。

小名木川がまっすぐ流れる理由。空襲による痛ましい犠牲。

 

この映画は、出来上がった後に流れた時間を思い起こさせる。

今はない場所。もうここにいない人。

 

この映画の物語は、この街で出会った2人が、ともに過ごす間に変わっていく。

 

この街で生きている今日が愛おしい。

誰かとともに過ごす今日が愛おしい。

誰かと出会うかもしれない今日が愛おしい。

 


 映画『小名木川物語』公式サイトには、撮影秘話もつづられています。

この映画が、さまざまな出会いと偶然によって織り成されたことが伝わってきます。

http://onagigawa.com/

コーヒーカップが割れてから

週末のたびにご夫婦で営んでいる近所のコーヒー屋さんにいく。

小さなお店は6席、それもイスはスツールやベンチで、混んでいる時は折りたたみイスが加わる。コーヒーが注がれるのは紙コップや持参のマグ。コーヒースタンドというのがふさわしいかもしれない。

開いているのは金〜日曜だけなので、毎週そのどこかで立ち寄り、コーヒーを飲んで、粉を買い(その週の分)、たまに豆を買う(冷凍ストック分)。お二人のさりげない連携プレー、お客さんと交わす何気ない会話、そして丁寧に淹れられたコーヒーにほっと心が安まる時を過ごせる。

先日、テレビ番組でご夫婦が取り上げられていた。職場で出会ったお二人は喫茶店が好きでデートを重ねたのも喫茶店だったという。いつか喫茶店を開きたいね、と転勤先のヨーロッパではコーヒーカップを買い集めた。

ところが、大事なコレクションは東日本大震災で粉々になってしまう。そして、〝いつか〟ではなく、と動き出した先に、今のお店がある。

このお店がオープンした頃から、サードウェーブのブームのなか、コーヒーを紙コップで出すお店はあちこちに増えた。でも、このお店が素敵なコーヒーカップではなく紙コップで出すのは、特別な意味を持っているように思える。

開かない扉を叩き続ける音

6月、ようやくリニューアルオープンした東京都現代美術館へ。

急ぎ足でボリュームある2つの企画展を見て回るなかで、目がとまり、ベンチに腰を下ろしたまま動けなかった映像があった。

それは、ヂョン・ヨンドゥ《古典と新作》2018。

昨年秋、休館中に街中で作品を展示するMOTサテライトの時、ある民家で上映されていたのを覚えている。でもその時は、ちらっと目をやるだけで足早に通り過ぎた。 

美術館の暗い一角で、3面のスクリーンに交互に映し出されるのは、小学校の子どもたち、深川江戸資料館での落語の公演、川の流れ・・・いくつもの町のシーンだ。そのなかで、よく見知った資料館通りの中心人物である商店主の語りに胸をつかれた。

戦争の体験を語っていた。空襲の時、区役所(いまの深川江戸資料館)に逃げ込んで助かったこと。少しすると大人が扉を閉めたこと。扉のすぐ側にいたから、外からドンドンと叩く音が聞こえていたこと。でも、大人は開けてはいけないと言ったこと。落ち着いてから扉を開けると、そこには焼けた人たちが倒れていたこと。もし扉を開けていたら、火は中まで入ってきて、中にいた人も助からなかっただろうこと。

街角に置かれたベンチに腰かけ、普段の穏やかな表情と淡々とした口調のまま、語っていた。でも、とてもとても重く苦しい話だった。

多くの人が亡くなったことも、苦しくひもじい思いをしたこともそれは辛いことなのだろうけれど、助かる人と助からなかった人を分ける境目のようなもの、それが一番辛いのではないかと思った。扉を叩き続ける音。それでも開かない扉。

もしかしたら、今もどこかで扉を叩く音がしているのかもしれない。聞こえていないだけで。耳を傾けていないだけで。叩き続けても開かない扉。扉の中の人を守るために。叩く音とそれでも扉を開けられない場面が、極限で、はっきりとした形で現れるのが、戦争なのだろうか。

街に流れる時間の結晶のような映画「小名木川物語」

 
映画って今流れている時間を閉じ込めることができるんだなと思った。
小名木川物語」は、今この街に流れている時間の結晶のような映画。
今だけじゃない。これまで流れてきた時間も、記憶として織り込んでいた。
 
MOTサテライトといい、街が変わっていく最中に、記録の試みが重なる。
後から振り返ると、今が街のターニングポイントなのだろう。
 
変わることで大切なものが失われてしまいそうで胸がざわざわする。
けれども、映画を見ているうちに、移ろいゆくことを受けとめることができそうな気がした。
変わっても、変わらない。この映画は、きっとそのベースの1つになる。
 

 追記:クラウドファンディングが始まっています。

motion-gallery.net