『負債論』を読むメモ(1)友人にお金を貸してはいけない理由

いまさらだけど2020年の年明けからデヴィッド・グレーバー著『負債論』を読んでいる。日本語訳は2016年11月でずいぶん話題になって、そのあとに出た本でも引用を見かける。厚さ5.5センチの鈍器本である。

 

「第五章 経済的諸関係のモラル的基盤についての小論」を読んでいる時に思ったこと。

 

よく、友達にお金を貸してはいけない、関係が壊れるから、と言われる。

その理由は、友人は負い目に感じて、それまでのような気兼ねのない関係ではなくなってしまうからだろうし、さらに友人が返せなかったら、連絡をとらず顔を合わせないようにするしかなくなってしまうからだろう。

 

でも、この章を読むなかで理由に一つ加わった。

もはや対等でないとする対等な者たちのあいだの合意こそ負債の本質(180ページ要約)

であるがゆえに、

負債が帳消しにされるとき、そのとき、対等性が回復され、なおかつ、二人は背をむけ、関係も解消される。(183ページ)

だとすれば「友人が返したとしても、友人関係は終わる」。

ただし、注にはこう記されている。

たとえば、お金に困っている友人を助けたいが、彼女に恥をかかせたくないとしよう。たいていの場合、お金を渡し、それが貸しであると主張することが、いちばんかんたんな方法である(そして双方ともに、そんなことがあったことを都合よく忘れてしまう)(668ページ)

でもお金を貸せば、友人ではなくなってしまうかもしれないが、お金を貸さずに見捨てたら、それは既に友人ではない。そこで「忘れる」という方便が登場する。

 

ただ、互いに忘れたふりをすることで当面はやりすごせそうだけれど、肝になるのは、お金に困っている立場が入れ替わった時ではないか。

「あの時貸したお金、返して」と言いたくなりそうだけど、それで渡すと関係は終わってしまいそう。借りていた方が「遅くなったけれど返すね」と言い出すのも同じく。

『「その日暮らし」の人類学』(小川さやか著)には、タンザニア都市部の友人関係のなかでの貸し借り模様が紹介されている。

それによると、友人への貸しは「忘れはしないけれど取り立てもしない」。相手は「返すといいながら返しはしない」。自分が困っても「取り立てずに別の友人から借りる」。さらにたまたま困っている時に相手と出くわしても「取り立てるのではなく借りる」。

 

貸し=贈与に近く、友人=借りることができる相手、に近い。その友人は別にお金持ちでなくてもいい。その人もまた誰かから借りて、貸すのだから。

良き友人=困ったときにカネを貸してくれる友人は、たくさんの人間にカネを借りることができる友人なのだ。(197ページ)

「友人にはお金を貸さない方がいい社会」と「友人とはお金を貸してくれる人である社会」、2つの社会は不確実性だったり流動性だったり、さまざまな要素が正反対だからこそベクトルが逆になる。2つの間の転換はどう起こるのだろうか。