母になってわかった10のこと(4〜6)

その4.父は加点方式、母は減点方式

内祝とともに送る葉書を用意していた時、夫が書き込んだコメントに目が留まった。その無邪気さに、隔たりを感じた最初の時だった。「パパ業がんばってます」。・・・私には「ママ業がんばってます」とはとても書けない。その後、年賀状に私が書いたコメントは「なんとか母やってます」。それすらも、「果たして母やってる、と言い切れるのだろうか。母がするようなことは一応しているつもりだけど」と考えこんでしまったほど。

聞くともなく耳に入ってくる電話の声。「いや〜、風呂入れてるよ〜」。パパのお風呂は家にいる休みの日だけ。すべてではない週末と、たまの平日。8割方、私が入れているのだが。

休みの日、「オレが見てるから、ゆっくりしてきなよ」という優しげな言葉にも、胸がざわつく。オレが特別に見ることで、特別に自由を作ってもらえる私?そう口にはしたりはしない。ただ、自分から子どもを見ていて、と頼んだりはすまいと意地っ張りになる。

父親とは、お風呂に入れたら、オムツ替えたら、散歩に連れ出したら、「育児をしている」という気になれるものだろうか。「イクメン」評価も似たようなものだ。加点方式であるのはそれだけではない。それまでと仕事の仕方も、休日の習慣も変わらず自分の思う通りで、そこに、家にいるときは気が向けば子どもの顔を眺め、あやす、という楽しみが加わる。

母親である私は生活のすべてががらりと変わった。子どもの世話をすることが前提。常に何か怠っているのではないかという不安がつきまとう。それは、人の目でもあり、自分の目でもある。オムツのウンチを拭うのを時々サボることが母親としてなっていないのではないかと後ろめたい。出かけるにも、子どもと一緒だから、行動範囲や時間帯の制限がある。単独行動は、子どもをどうするかという手立てを講じて、初めて可能になる。働くことも。

同じ親ではあるけれど、心持ちも、置かれた状況も、大きく隔たる。父親は、子どもを預けてはいないのか。母親に、あるいは保育園に。これまで夫婦である時には夫と妻の役割分担をそれほど意識していなかったのに、子どもが出来たとたん、父親=働いて稼ぐ人、母親=育児(+家事)をする人となったようで、どうにも釈然としない。

働いて稼ぐことだって必ずしも自由ではないけれど、少なくとも自分ごと、ではある。育児を自分ごとにすることは、ブレーキがかかる。子どもを思うとおりにしようとしてはいけない、子どもの成果や評価を自分と置き換えてはいけない、子どもに寄りかかってはいけない、と。

その5.ママという名前

以前、「名前をなくした女神」というドラマがあった。幼稚園のママ友同士のドロドロの関係を描いたもので、タイトルの由来は○○くんママ、○○ちゃんママという互いの呼び方だったように記憶している。そのドラマのことを思い出したのは、妊婦時代から通っていたママ教室に、2カ月手前の子どもと初めて行った時。「お名前と赤ちゃんが何か月か、あと最近の様子を」と促され、母たちが順に自己紹介していく途中ではっとした。女の子の場合などすぐに分からなかったのだが、名乗っているフルネームは子どものものだった。私は、妊婦の時のように自分の名前を名乗る感覚でいた。最後に回ってきて、流れに合わせ子どもの名を口にしたけれど、どうにも引っかかったままだった。

区の子育て広場では、名札シールを服に貼る。赤ちゃんは名前と月齢。母親は○○ママ、あるいは○○母という形で子どもの名前を書き、その下に自分の名前を書くよう見本にはある。それでも自分の名前を書いていない人は多い。

結婚し、その後、転職の成り行きで旧姓使用もやめると元の名字が遠ざかっていった。そして今、ようやく名乗るのに慣れた名字も、一番親しい名前も吹っ飛び、自分がつけた子どもの名を名乗る。だから、変わらず名前やニックネームで呼び合える友人にほっとする。互いに子を持ち、子どもの話をしたとしても、軸は自分にある。

名前をなくした女神」では、杏ちゃん演じる主人公が、りょう演じるママと親しくなり、その象徴が互いに○○くんママではなく、名前で呼び合うことだった。ところが、嫉妬から最大の裏切りが・・・(フィクションです)

呼び方よりもっと引っかかるのは、Facebookなどで子どもの写真がプロフィールに使われている時。自分の顔写真を使うのに抵抗を覚えるのは同感だ。だから人によって遠景だったり、正面じゃない顔だったり(私はこれ)、イラストだったりマスコットだったりするのだろう。でも、子どもは、アナタではない別の人、だよね?と揚げ足取りをしたくなってしまう。子どもと一緒の自分、とは似て非なるものだ。子どもと一緒にいることは確かに今のアイデンティティの1つだし、アイデンティティで言えば、ビールが好きな人がジョッキの写真を使う方がよっぽど自分を示しているのではないか。

その6.すみませんは封印

ベビーカーにしても、抱っこひもにしても、子連れはかさばり、不自由である。
気づくと、すみませんを連発していた。ベビーカーで人によけてもらう時、店に入ろうとしてドアを開けてもらった時、スーパーでレジから買い物かごを運んでもらった時。すみませんとばかり言っているとだんだん肩身が狭くなり、人がいるところに出かけるのが気が引けるようになっていく。

今まで子連れの友人といた時に、率先してすみませんと言っていたことを思い返し、反省した。その子にまつわることを同行しているからと勝手に謝っていた。彼女たちは不必要に口にしてはいなかった。

謝ってばかりだと疲れてしまう。自分と子どもの存在を卑下しているようなものだから。それからは、「ありがとうございます」とお礼を言い、「ちょっと通らせてもらいますね」と断りはしても、明らかに迷惑を掛けたのではなければ謝らないようにしている。

ただ、感謝もしてばかりいると時に疲れる。

産後は人に頼ることが多い。特に身内。助かるのは確かなのだが、あなたのためを思って、という100%善意を打ち出されると、感謝して受け取るほかはなく、だんだん自分が何もできないような無力感に浸されて苦しかった。産後は身体を休めなくてはいけないと言われるが、どこか具合が悪いわけではないから、なおさらだ。お金を払うサービスの方が気が楽かもしれないとさえ思い、そんな考えを抱いて、素直に感謝できない自分に罪悪感がわいてくる。

要は頼り下手なのだろう。育児へのアドバイスで「ママが一人で抱え込まず、周囲の人にうまく甘えて巻き込むことが大事」などとあると、ワタシ巻き込み力、足りないかも、ダメな母かも、とへこんでくる。

昨今、感謝という言葉が増えたと感じる。それも、特定の人に直接届けられる感謝ではなく、自分は感謝の気持ちを持っていますよ、と表明するような形で。支えてくれる人たちに、とか出会いに、とか。それは気が楽な感謝だと思う。

身内に手伝ってもらって気が引けるのは、本来自分たち夫婦で完結すべきところをしてもらっている、という核家族の意識も影響しているのだろうか。大家族であればそんなことはないのかもしれない。同じことは介護にも言えるはずで、私が年をとって子どもに面倒を見てもらうことになれば(日々の世話にせよ、介護サービスの手配にせよ)、感謝しつつ申し訳なく感じるのだろう。家族を介護するのは当たり前とされていたことは、する方(特に嫁)を縛ったけれど、される方の気を楽にするという効用はあったのかもしれない。