11月15日 医薬分業

またまた間が空いてしまいました。引っ越したはてなブログでは、何日前の記事が表示されるのですが、70日前とあるのを見てびっくり、そんなに経ってしまったか・・・。年内に「父の病窓から」を完結させることはできず、年度内が最終リミットです。ほんとに。春からは仕事に本腰いれようと思っているので。慌しさに没入する前に、あの日々を書き留めることだけはしておきたい。仕事への慣らし運転にもなるかな、と。

 

11月15日 あちこちの薬局に電話を掛け、鎮痛麻薬を扱っているか尋ねる。

 

前日、退院してから初めての外来で、薬局での待ち時間がネックになることが分かった。来週の外来は私はいないと想定されていたけれど、母は店番があるのでずっとは付き添えない。後から従業員の人に受け取りにいってもらう?でも父の外来の順番は午後の最後なので夕方、終業時間を超えてしまう。翌朝、出勤途中で受け取ってきてもらう?1日分足りなくなりはしないか。それなら近所の薬局で受け取ることは可能だろうか?ということで、リストをもとに電話を掛けたというわけだ。

鎮痛麻薬はどこの薬局にも置いてあるわけじゃない。免許制で、管理についても厳しく定められているらしい。その免許を持つ薬局のリストを、末期がんと告げられ、鎮痛麻薬が処方されはじめた時に渡されていた。大きな病院の周りにはたいてい、そこの処方箋を主に扱う薬局が何店舗かあるが、それまで父が利用していた薬局は麻薬の免許がなかったので、今の薬局に替えていた。そしてその薬局は混んでいる。(だから元々利用していなかったらしい。)

あちこちの薬局に電話をするものの、免許があるからといって、いつも鎮痛麻薬の在庫があるわけでもないという。鎮痛麻薬が処方されるのはがん患者が多いだろうが、がん患者が通院しているような総合病院の近くでなければ、そうそう扱うこともないのだろう。使用期限もある。本店から取り寄せるので翌日になるだとか、発注するのであらかじめ知らせてほしい、など使い勝手が悪いことが分かった。結局、元の病院近くの薬局を利用し、翌日、従業員の人に持ってきてもらい、そして医師に事情を伝えて多めに処方してもらうということで落ち着いた。

 

医薬分業は、薬剤師が医師とは別の専門家の視点から投薬をチェックする狙いだという。副作用や飲み合わせに目を配り、薬で稼ぎたいゆえの過剰投薬を防ぐ。ただ、どの病院の処方箋を、どの薬局に持っていってもいいというのが建前ではあるが、あらゆる薬局が、すべての薬を揃えるわけではないし、そうすることはたぶんおそろしく非効率的だから、病院と結びついて、その病院で処方される薬を揃える。(門前薬局というらしい。)院内薬局とどう違うのか?患者の側からすれば、会計と薬局をはしごして二度待ちしなければならず手間なだけである。

確かにあちこちの病院にかかっている人に対しては、それぞれで処方された薬の飲み合わせを1つのかかりつけ薬局でチェックするのは効果的かもしれないが、それが出来るのは処方されるのが一般的な薬の場合に限られるだろう。逆に言えば外来ではそこまで専門的な投薬が行われることがそれほどなく、この鎮痛麻薬の外来処方というのは特殊なのかもしれない。

そういえば出産後の入院中、ひどく湿疹ができた時のこと。医師に診てもらうと、「子ども用の薬なら出せるけど」という。小児科併設の産科病院だったから、大人用の皮膚科の薬は置いていないというわけだ。すばらしく特化している。妊娠中、外来で切迫早産の薬を処方されていたけれど、それは院内薬局で受け取っていた。

院外にしても院内にしても、薬剤師は薬について患者に説明する役割は同じだ。あとは医師の処方にどこまで物申すことができるか、だろう。「独立している方が言いやすい」からこその医薬分業なのであって、それがないのなら患者が面倒なだけである。

11月14日 通院

街角の焙煎所で珈琲を手にぼんやりしていたら、学校帰りの小学生たちがガラスの向こうを歩いていく。新しいお客さんと入れ違いにごちそうさま、と通りに出たら、ミルで豆を挽いたのだろう、ふわっと香りが広がった。ワインのような、変わった豆だそうだ。焙煎する時にはもっと道の遠くまで香ばしさが漂う。

実家の工場もちょうど周りこむように小学校の通学路になっていて、よく同級生からお茶の香りがすると言われていた。

珈琲とお茶の仕上げは、けっこう似ている。珈琲は豆を挽き、お茶は葉を揉む、のだけれど、原料に火を入れる加減で味や香りが変わる。さまざまな特徴を持つ原料をブレンドして、味を作る。

機械を運び出した工場はがらんどうで、もうじき倉庫として貸し出す。通学路も変わって、小学生はもう通らない。

11月14日 外来に付き添っていく。

緩和ケア病棟を退院するとき、外来に家族がきてもかまわないという了承を主治医の先生から得た。最初の外来の予約の日がやってきた。時間は午後の外来の一番最後。父はお昼を食べたあとからそわそわしていた。出がけの電話が長引いた私をしり目に、早々に支度をして、上がり框に腰かけて待っていた。

タクシーで病院に着くと、入り口で車イスに乗せ、受付の機械に診察券をかざす。
前は血液検査で二階にいったけれど、それはもうしなくていい。検査データを見て状況を把握し、対策を立てる段階ではもうない。直接、泌尿器科の受付に行って診察券を出し、待つ。電光掲示板にそれぞれの診察室でいま何時台の予約の患者を診ているかが表示される。30分はずれている。同じ予約枠のなかでも3人いるから、さらに待つ。

診察室のなかからマイクで患者の名が呼ばれる。○○様、という医師と、○○さん、という医師がいる。医者が偉そうだった時代から、患者を上にする、サービス業的な姿勢を示すため様呼称が取り入れられたものの、今また「さん」に戻す病院も出てきているようだ。主治医の先生は○○さんだった。確かにこちらの方が自然だ。

診察室に入ってきた父の顔を見て、主治医の先生の表情が和らいだ。状態はいいと判断したようだ。鎮痛麻薬や睡眠薬の薬の量など話して、また一週間後ということで終わった。

泌尿器科の受付でファイルをもらい、総合受付の窓口に出す。処方箋は別の窓口から薬局にFAXする。父は先にタクシーで帰した。30分近く待って、名を呼ばれ、精算書を受け取る。自動精算機で支払いを済ませ、目の前の薬局へ。先に処方箋をFAXしたものの、ここでも30分近く待つ。薬ができた順に番号が電光掲示板に表示されていく。

つくづく病院とは待つところだ。
私でさえ、まだかな、もうこんなに過ぎたのに、と思いながら電光掲示板を眺めたりしているのは疲れる。
それを病人がやるのだ。特に体が弱った状態では、家族がいなければ、病院に通うのも一苦労ではないか。おひとり様だとどうするのだろうか。介護に通院付き添いという項目は一応あるものの、認定がややこしそうだ。

医療、介護、それに生活保護に保育。
公共サービスというのは、受けるための手続きがすさまじく煩雑だ。
必要としている人は体力や気力や情報収集力、あるいは行動の自由を欠いている状態だというのに。

待つというイライラについて。
別の外来の日、待合室で事務の女性相手に怒鳴り散らしている男の人がいた。その日、泌尿器科では患者がファイルを受付に出したり、会計に持って行ったり、という作業手順を変える実験をしていた。何かの手違いで診察の順番が後回しになったらしい。

誰かがイライラを発散させる声は、待っているイライラを倍増させる。
たまらず近寄って「静かに、ここにいる人たちには大声はこたえます」というと、「なんだお前は」とすごんできた。言い争いになっては周りの患者たちにさらに耳障りだと思い、しばらく黙ってじっとその人を見ていた。この人も病気を抱え、神経が逆撫でられやすくなっているのだろうと思えてきた。じきに事務の役職らしい男の人が出て来て、女性と2人で平謝りした。彼はようやく矛先を収めたようだった。

そういえば父も一度、会計でひどく待たされ、受付に強く抗議したと言っていた。「手際が悪い」とよく観察するのは経営者目線か。丁重に謝罪されたらしいが、その後、自分が病院でウルサイ患者だと思われているのではないか、主治医までそれを知っているのではないかとしきりに気にしていた。豪気なのか、小心なのか、よく分からない。

11月11日 面会

11月11日 夫の父母が見舞いに来てくれた。

あと1カ月だと言われて、誰に会っておいた方がいいのか考えなければならなかった。そうすると、やっぱり本人に聞いた方がいいのではないかという迷いに何度も戻った。
誰に会っておきたいんだろう。誰に会いたいんだろう。
会っておかなければならない人は誰だろう。
取り返しのつかないことを推測で判断しなければならない。
それに、父に、相手に面会のことをどのように伝えればいいのか。

入院した翌日に、大学の恩師の先生が見舞いに来てくれた。
同窓会に欠席した父を気遣って遠方から来てくれることになっていたが、それが入院した後にあたった。私は席をはずしていたが、別れ際に戻ると、父は少し涙ぐんでいた。

入院中、叔父叔母が訪れた。そもそも相続の相談で会う必要があったから、理由など考えずに済んだ。

自分の義父母は、どちらかというと父のためというより、私のためだったのかもしれない。会っておいてほしい、という気持ち。見舞いに来てくれると言うから、と父に伝えると、緊張する、とつぶやいた。実は義父母には来てくれるよう頼んだようなもので、行っていいのか、とためらっていた。

病院への見舞いになる予定が、退院したので家で迎えることになった。父には工場の案内もしてもらった。こうやって生きた人だというのを知ってもらいたかった。会話は兄が加わってくれたのでよかったが、父を疲れさせてしまったかもしれない。
こんな時の見舞いは来る方も掛ける言葉が難しかっただろうと思う。

一番悩んだのは、施設で暮らす祖母だった。
お袋、と頼ったり甘えたりするところはみじんもなかった父ではあるけれど、母親なんだから、ひと目会いたいはず。会うには連れてきてもらわなければならないから言い出しにくいかもしれない。でも、自分の衰えた姿を見せたくないのではないか。わざわざ祖母を連れてきたら、いよいよ死ぬのだと突き付けることになりはしないか。

母は、反対した。
祖母が父の姿を見て取り乱したりしては、父も辛いだろうという。
兄は、父がどう思っているか聞いてみるべきだと言った。
でも、それをどう切り出せばいいというのか。
母は、父に聞くことにも反対した。

祖母には、父が入院したこと、退院して家で静養していることを伝えていた。
それまでは毎週末、顔を見にきていたのに、どうして来ないのかと思っていたのかどうか。退院して家にいる、ということで安心していたようだった。

ある時、父が、祖母の施設に電話をかけて、祖母につないでもらってほしいという。父に代わると「また顔を見にいくから」と言っていた。あぁ、会わせなくていいのだな、と迷いは消えた。

自宅療養の困りごとは、家を訪ねる人を断るわけにはいかないところ。何も知らない相手はいつも通り入ってくるから、リビングに寝ているところに出くわす。応対せざるをえない。
「こんなになっちゃって」「がんばれよ」。無神経な言葉に、思わず「がんばっていますから」と返した。
父からは怒られたけれど、末期だと言ったから来たのでもないし、ふらっと訪れそうな人にあらかじめ「来ないで」と言っておくこともできない。入院なら、病院や病室を知らせなければ済む。何か手立てはあるのだろうか。

11月10日 店じまい

また、この季節が巡ってきた。昨年、父の最期の日々に傍にいたことを書き記そうとしたものの、緩和ケア病棟を退院したところでタイムオーバーになってしまった(年末のバタバタ&引っ越しのため)。その後も1歳までには、とか思っていたけれど、なんとなく気が乗らないままきた。

でもやっぱり同じ季節を迎えると思い出す。日付に。風景に。昨年は子どもを迎えたばかりの頃だったから、その記憶も一緒に。

たとえば、公園の色づく木々に、父の代わりに通った病院の玄関先にあった真っ黄色のイチョウの木を。と同時に、生後1カ月経って、そぉっと抱えて近所をワンブロック歩いていたころのことを。家の裏の神社の木が赤くなって葉が落ちるまでを日々眺めていた。その木の下で、鳥居の手前から、今日も子が無事でありますようにと祈った。

最後まで書き上げられたら、次の景色が開ける気がする。目次は出来ている。命日まで、同じペースで書いていけるか。

11月10日 退院したばかりの父は週末で帰省した兄を従えて工場にこもっていた。

もう今年度限りで工場も、店も閉めることを決めていた。在庫の処分のあてをつけなければならない。はるばる北陸から見舞いに訪れた義兄夫妻の相手もそこそこに工場に戻っていった。

入院中も、体調が上向くとすぐに、得意先に順に電話を掛け、休業の旨、伝えた。そして、手紙の口述筆記をさせた。長期休業し、体調を万全にすることに専念した上で再起をはかりたい、以前と変わらぬ姿をお見せする・・・という言葉に、気に留めないそぶりでiPadに打ち込みながら胸が詰まった。

従業員の人に在庫の量を調べるよう伝え、その一覧表を見ながらあれこれ算段していた。ベッドの上で見本のお茶の葉を触ったり、香りを確かめたりしたこともある。入院中の私は、父の指示を受けて、あれこれ作業をし、母に指示を伝えたり、母からの報告を上げたりと付き添いというより社長秘書のようなものだった。遠隔操作はもどかしかったのだろう。退院した日は家に戻るなり工場に向かった。

それと、私にクルマのディーラーに連絡するよう言った。
鎮痛麻薬を使うので、もう運転はできない。自分の名義のクルマはあとあと厄介だと思ったのだろう、すぐ売れという。クルマが好きで、でも仕事柄ワゴンばかり乗っていて、ようやく数年前に手にいれたセダンだった。白のTIARA。ラインがきれいで乗り心地がいい、よいクルマだった。クラウンでもプリウスでもないところが父に似合っていた。帰省するたび駅まで送り迎えにハンドルを握ってくれる父はどことなくうれしそうだった。

翌日にやってきたディーラーの営業マンは、営業所に戻って手続きを終えると、すぐに引き取りにやってきた。私は名残惜しくて走り去るクルマを眺めていたが、父は処分するように言ってから見もしなかった。

店の通信販売のお客さんたちに、来年の新茶に入らず休業する旨のハガキを送ると、注文がどっとやってきて、母は発送作業でてんてこ舞いになった。
父は工場に足を運んでは、疲れるとベッドに横になったり、リビングのテーブルで経理の帳面を繰ったりしていた。工場の機械を引き取る会社の人が下見にきた。半年前に祖父が亡くなっていたので、税理士さんがたびたび来て相続の打ち合わせをしていた。

11月も末になると父の調子が悪くなり、母に店のシャッターを下ろさせた。張り紙の文言は二転三転した。一時休業、廃業、店主体調不良のためと入れる、入れない。文字の大きさ。途中から母の意見と食い違い、父ににこっそり変えた文面になった。雨にぬれても大丈夫なようにビニールに包んだ紙を何度も貼り直した。

在庫を引き受けてくれたお得意先に主だった荷物が発送され、めどをつくのを待つようにして父は逝った。祖父の相続の手続きもすべて終わっていた。ずいぶんと始末がよい最期だった。一代で大きくした身代をきれいに閉めていった。

入院中、私の夫に「私はついに、息子に『会社を辞めて後を継げ』と言うことはできなかった」と漏らしていた。兄は考えたこともあったようだ。というより、考えるべき選択肢として常にあったのかもしれない。
兄が手伝った日の父はずいぶんと張り切っていた。

余命わずかという時、人は何をしようとするのだろうか。
元気な時に考えてみても、実際にその時になってみるとまったく違うのだろう。
1カ月の余命は告げていなかったけれど、末期がんとは聞いていたから、残りの日々が限られていることは分かっていた。父はしなければならないことをしていた。

5年前にがんが見つかって、手術することになった時、父は事業を縮小した。卸の取引先を絞り、数人いた従業員も1人になった。その後、繁忙期を外して手術を受けながらやってきたが、この年の初めに再発がわかり、抗がん剤治療を受けることになって、かなり迷ったようだ。いっそ事業を畳むか、店の小売り分だけ工場で作るか。結局、さらに縮小して卸も続けた。毎月の抗がん剤治療も繁忙期を外して予定を組んでもらった。後から分かったことだが、取引先からの引き留めもあったようだ。

仕事、とひとことで言っても、個人商店のこと、経営者であり、営業から買い付けから工場での肉体労働まですべてこなす。精神的にも体力的にも負担であることは確かだけれど、仕事をやめたら、病気だけになっちゃってかえって辛いから、と母は言っていた。私もそう思う。ずっと仕事、仕事で来て、結局、骨休めしたり、楽しみに時間を使ったことがなかったんだな、とも思うけれど、仕事が最期の日々の支えになった面もあるように思う。

母になってわかった10のこと(7〜番外)

その7.他人の目が気になる

お腹にいる頃からだったと思う。やたらと人の目が気になるようになった。いや、人の目ではない。漠然とした、世間の目だ。生まれてきたら加速した。自分は母親として後ろ指を指されるようなことをしていないか。母がやるべきことをしているか。たとえば子どもが泣いた時に抱きあげるのが遅くはないだろうか。産後、帝王切開だったこともあり痛み止めを勧められたが、普段から生理痛でも頭痛でも飲みつけないので断っていた。ある日、薬剤師さんから「痛み止め、飲んでいないんですか?ほかのお母さんたちは、赤ちゃんが泣いた時にさっと抱っこしてあげたいから、お腹が痛いとすぐに動けないからって飲んでいますよ」と言われ、自分が赤ちゃんのことを考えずに自己都合で行動しているように思えてへこんだ。

振り返ると、これまでの自分はすこぶる傍若無人だった。自分がすべて正しいと思っていたわけではないけれど、自分が思ったように振る舞って何が悪いと開き直り、直接言われたことさえ、たいして気にしていなかった。

どうしてこんなに180度変わってしまったのだろう。

これまでは、自分が行ったこと選んだことの結果はすべて自分に跳ね返ってきた。痛い思いをするのも自分なんだから、自分が納得できるようにしたい。人から言われたことや、世の中の大勢は、あくまでも他人の見方に過ぎなかった。

ところが、母となると結果を負うのは子ども。子どもにとっては、母は選べない。「わたしがあなたを選びました」なんて絵本があって、産院の母親教室で助産婦さんが朗読していたけれど、そんなはずはない。母は子にとって替えのきかない存在であるのに、小さいうちは子どもの世界のほとんどすべてを規定してしまう。すると、自分がすべて正しいとは思えないことが裏返って、自分が思う通りにすることが、子どもに悪影響を及ぼしてしまうのではないかと怖くなる。せめて世間一般からみた母基準をクリアしておきたい、と他人の目、世の声にあるはずもない母基準を意識する。

母親を批判する世の中の声には、すべからく胸が痛む。
ベビーシッターに預けて子が亡くなった事件をはじめ、子どもを置いてのシングルマザーのデート、電車のなかで子どもを泣き止ませない親、等々、母親失格、と指差す先が、いつ自分に向けられるのかと怖い。何をもとに失格と言われるのか分からないし、言われることすべてをクリアすることはできない。言われて「でも自分は母親失格ではない」と言い返す自信もない。

母基準のポイントは多々ある。
最初のハードルは自然分娩&母乳育児か。年配の人に「おっぱい出てる?」と聞かれる時ほど出ていてよかった、出ていなかった時の精神的負荷たるやいかばかりか・・・と思ったものだが、これは身体のことなので自分ではどうしようもない部分もある。

自分でどうするかを決めるものの方がより、他人の目が気になる。
たとえば予防接種。子どもを預けること。
論争になりがちなものとして、公共交通機関でのベビーカー、そもそも子連れで乗り物や公共の場に出ること。
最近ではハーネスなんてのもあった。

だから特に乗り物では緊張する。まだ軽いから抱っこひもで出かけることが多いのと、幸い大人しいことが多いからだろう、今のところ辛い思いをすることはなく、話しかけられたり、あやしてもらったり、席を譲ってもらったりと優しい応対ばかりで、それは老若男女問わない。

直接、自分が聞いていない声に過敏になるのはマイナスだとも思う。
論争でも批判は「特にマナーの悪い親」を念頭に置いているのに、それに多くの親たちが傷ついて反論し、反論すること自体がまた批判を呼ぶ・・・という構図になっているように見える。おそらく当の批判対象者のあずかり知らぬところで。

その8.今が分かれ道だと思うと焦る

退院してすぐの頃、今、泣いているのを放置したらサイレントベビーになってしまうんじゃないか、と焦っていた。
親が呼びかけに応えないと、あきらめて呼びかけること自体をやめてしまうという説が頭のどこかに残っていて、それに縛られた。
テレビを見せると光や音の強い刺激に慣れてしまうのでは、一度濃い味を覚えると、薄味では物足りなくなってしまうのでは・・・。
生まれたばかりの白紙のところへ幼少期の刷り込みは大きいのだから、今の親の行動が子のあり方を左右してしまうのではと恐れる。
極端に言えば「今○○しなければ/○○すると、ダークサイドに落ちてそのまま」というようなもの。
確かに親の影響は大きいだろうが、親が子のすべてを決められるというのは、ある意味、傲慢だろう。
だから一日一日を丁寧に接しようと思えればいいけれど、振り返って取り返しのつかないことをしたと思い、今何をすれば後悔しないかと悩んでは本末転倒だ。

自分のことでも、今、預けて働きださなければ、そのまま専業主婦だという強迫観念がある。
保育園の1歳児募集は激戦で、2歳以降は募集の枠自体が少ない。だからゼロ歳で入れようとする人が多い。育休中の有利な人たちがそうするなかで、不利な自分がのんきにしていていいのか。仕事のブランクは長ければ長いほど、マイナスだ。感覚も、人とのつながりも薄れてしまう。
子がある程度、大きくなってから仕事を再開している人はいる。仕事のブランク、専業主婦を経たから分かったこと、出来ることもあるという。
会社を離れた時点で、人並みの形を追うのではなく、自分の道を歩くと決めたはずだった。
それでも、今が分かれ道だという焦りからなかなか抜けきれない。

その9.自分を守ってくれる言葉には2種類ある

産前から産後までお世話になった助産師さんがいる。産院ではなく、個人的なつながりのある方だ。
あれこれと辛い時、掛けられた言葉にこみ上げてくるものがあって、そして緩むところがあった。
今、その言葉をここに書いたとしても、そうは伝わらないかもしれない。
きっと、私のことを知り、その時の私の様子を見て、発せられたから生きた言葉。

その7に他人の目が気になる、と書いたが、論争などで、世間様の声に対して切り結んでくれる人がいる。
今の母の事情や、医療の実際面を説明する。批判のおかしいところを指摘する。
読んでいると少し気が楽になるし、論争を鎮める力もある。
本などの形で「そんな声は気にしなくてもいいよ」と言ってくれるものもある。

前者は私宛ての言葉。後者は私の盾となる言論。
この二つ、とっても対照的だ。
前者は人と人との間で発せられるもの。医療はじめ保育、教育、介護などケアに属する場があてはまるだろう。
後者はマスコミ的言論といえるだろうか。一定の知名度なりなんなりのある人から不特定多数の人に向けられたもの。
職業柄、これまで後者の方にはなじみがあったし、それが言葉の力だと思っていたが、前者の、コピーも量産も不可能な、その場にいる人にしかできない言葉を発する役割を、名を広く知られることもない多くの人々が担っていることに思いが至った。

その10.悩みは移り変わる

この「母になってわかったこと」は、生後6〜7カ月の時点で、メモをもとに思い出しながら振り返りながら書いている。あぁあの時は辛かったな、と既に過去形のこともある。だから自分の気持ちを客観視して文章にできているのかもしれない。時間が経って、少し苛立ちや強迫観念が薄れたと思うところもある。その4.父は加点方式、母は減点方式、やその7.他人の目が気になる、など。

首がすわり、寝返りをし、ハイハイをしだし・・・子どもはあっという間に成長していく。ゴキュゴキュとおっぱいを飲む子を眺めながら、うまくくわえさせられずに苦しんだ日を思い返すのもつかの間、今度は離乳食。同じ授乳の間でも、病院では頻回授乳をするように言われ、頑張っていたら、今度はだんだん間隔をあけていく段階に入る。その時々で悩みは移り変るし、対処法も変わる。時には逆にもなる。同じ月齢の子でも様子が違うから、一般論やほかの子のことはそのままあてはめられない。今この時、この子にフォーカスして見ること、向き合うことが第一なのだとおぼろげながら思う。

自分が母である状態に少しは慣れてきたけれど、きっとこの先も、悩ましいことが次々現れては過ぎてゆくのだろう。今から想像がつくことから、思いもよらないことまで。過ぎてしまえば何てことはないことばかりかもしれないけれど、その時々の気持ちを綴っておくことは、その時点の自分にも、ずっと先に読む自分にも、何かしら役に立つように思う。

番外・子と一緒にいるときの自分が好き

生後1カ月が過ぎ、授乳も落ち着いた頃に気付いた。
子どもに話しかけるときの自分の声が柔らかい。顔も緩んでいる。
その後、あやして笑うようになると、笑みが移ったかのように自分の顔もほころぶ。なかなか泣き止まなかったり、抱っこの重みに疲れたりしたときには無表情の時もある。それでも、子どもと一緒にいるときの自分はかつてなく柔らかい。