11月10日 店じまい

また、この季節が巡ってきた。昨年、父の最期の日々に傍にいたことを書き記そうとしたものの、緩和ケア病棟を退院したところでタイムオーバーになってしまった(年末のバタバタ&引っ越しのため)。その後も1歳までには、とか思っていたけれど、なんとなく気が乗らないままきた。

でもやっぱり同じ季節を迎えると思い出す。日付に。風景に。昨年は子どもを迎えたばかりの頃だったから、その記憶も一緒に。

たとえば、公園の色づく木々に、父の代わりに通った病院の玄関先にあった真っ黄色のイチョウの木を。と同時に、生後1カ月経って、そぉっと抱えて近所をワンブロック歩いていたころのことを。家の裏の神社の木が赤くなって葉が落ちるまでを日々眺めていた。その木の下で、鳥居の手前から、今日も子が無事でありますようにと祈った。

最後まで書き上げられたら、次の景色が開ける気がする。目次は出来ている。命日まで、同じペースで書いていけるか。

11月10日 退院したばかりの父は週末で帰省した兄を従えて工場にこもっていた。

もう今年度限りで工場も、店も閉めることを決めていた。在庫の処分のあてをつけなければならない。はるばる北陸から見舞いに訪れた義兄夫妻の相手もそこそこに工場に戻っていった。

入院中も、体調が上向くとすぐに、得意先に順に電話を掛け、休業の旨、伝えた。そして、手紙の口述筆記をさせた。長期休業し、体調を万全にすることに専念した上で再起をはかりたい、以前と変わらぬ姿をお見せする・・・という言葉に、気に留めないそぶりでiPadに打ち込みながら胸が詰まった。

従業員の人に在庫の量を調べるよう伝え、その一覧表を見ながらあれこれ算段していた。ベッドの上で見本のお茶の葉を触ったり、香りを確かめたりしたこともある。入院中の私は、父の指示を受けて、あれこれ作業をし、母に指示を伝えたり、母からの報告を上げたりと付き添いというより社長秘書のようなものだった。遠隔操作はもどかしかったのだろう。退院した日は家に戻るなり工場に向かった。

それと、私にクルマのディーラーに連絡するよう言った。
鎮痛麻薬を使うので、もう運転はできない。自分の名義のクルマはあとあと厄介だと思ったのだろう、すぐ売れという。クルマが好きで、でも仕事柄ワゴンばかり乗っていて、ようやく数年前に手にいれたセダンだった。白のTIARA。ラインがきれいで乗り心地がいい、よいクルマだった。クラウンでもプリウスでもないところが父に似合っていた。帰省するたび駅まで送り迎えにハンドルを握ってくれる父はどことなくうれしそうだった。

翌日にやってきたディーラーの営業マンは、営業所に戻って手続きを終えると、すぐに引き取りにやってきた。私は名残惜しくて走り去るクルマを眺めていたが、父は処分するように言ってから見もしなかった。

店の通信販売のお客さんたちに、来年の新茶に入らず休業する旨のハガキを送ると、注文がどっとやってきて、母は発送作業でてんてこ舞いになった。
父は工場に足を運んでは、疲れるとベッドに横になったり、リビングのテーブルで経理の帳面を繰ったりしていた。工場の機械を引き取る会社の人が下見にきた。半年前に祖父が亡くなっていたので、税理士さんがたびたび来て相続の打ち合わせをしていた。

11月も末になると父の調子が悪くなり、母に店のシャッターを下ろさせた。張り紙の文言は二転三転した。一時休業、廃業、店主体調不良のためと入れる、入れない。文字の大きさ。途中から母の意見と食い違い、父ににこっそり変えた文面になった。雨にぬれても大丈夫なようにビニールに包んだ紙を何度も貼り直した。

在庫を引き受けてくれたお得意先に主だった荷物が発送され、めどをつくのを待つようにして父は逝った。祖父の相続の手続きもすべて終わっていた。ずいぶんと始末がよい最期だった。一代で大きくした身代をきれいに閉めていった。

入院中、私の夫に「私はついに、息子に『会社を辞めて後を継げ』と言うことはできなかった」と漏らしていた。兄は考えたこともあったようだ。というより、考えるべき選択肢として常にあったのかもしれない。
兄が手伝った日の父はずいぶんと張り切っていた。

余命わずかという時、人は何をしようとするのだろうか。
元気な時に考えてみても、実際にその時になってみるとまったく違うのだろう。
1カ月の余命は告げていなかったけれど、末期がんとは聞いていたから、残りの日々が限られていることは分かっていた。父はしなければならないことをしていた。

5年前にがんが見つかって、手術することになった時、父は事業を縮小した。卸の取引先を絞り、数人いた従業員も1人になった。その後、繁忙期を外して手術を受けながらやってきたが、この年の初めに再発がわかり、抗がん剤治療を受けることになって、かなり迷ったようだ。いっそ事業を畳むか、店の小売り分だけ工場で作るか。結局、さらに縮小して卸も続けた。毎月の抗がん剤治療も繁忙期を外して予定を組んでもらった。後から分かったことだが、取引先からの引き留めもあったようだ。

仕事、とひとことで言っても、個人商店のこと、経営者であり、営業から買い付けから工場での肉体労働まですべてこなす。精神的にも体力的にも負担であることは確かだけれど、仕事をやめたら、病気だけになっちゃってかえって辛いから、と母は言っていた。私もそう思う。ずっと仕事、仕事で来て、結局、骨休めしたり、楽しみに時間を使ったことがなかったんだな、とも思うけれど、仕事が最期の日々の支えになった面もあるように思う。