10月31日 延命治療

10月31日 水曜
主治医の先生から延命治療をしない方針に同意するよう求められる。

夜、いつもより早く店を閉めて病院に来た母と、父の病室を抜け出した私とで、主治医の先生の話を聞く。

示されたのは「病状説明と終末期診療の同意書」という書類。
苦痛が少なく、安らかな最期を迎えるため、危篤時の蘇生術(気管挿管、人口呼吸器装着、心臓マッサージ、電気ショックなど)は行わないという病院の方針について署名するものだ。医療関係者の間では「DNAR文書(Do not attempt resuscitation)」と呼ばれているらしい。

記憶頼りで細部は不確かだけど、主治医の先生の話。

末期がんでは、蘇生術を行ったとしても、その後、回復する見込みはなく、苦痛が長引くだけ。かつて、自分が研修医だった頃には、家族が到着するまで心臓マッサージで命を長らえさせて、息を引き取る時に立ち会うようにしたりしていたが、ナンセンスだ。その後、医師の判断で蘇生措置をしないようになったが、今はこういうご時世なので、形式ばった文書をとっている。欧米などでは本人が事前に意思を示したりするが、日本ではまだ根づいてはいないので、家族に話し、同意を得ている。

もし署名した文書がないと、自分が病院にいて対応できる時には蘇生措置をしないが、夜間や休日に当直医が対応することもある。特に退院した後に急変して運ばれた際など、救急では出来る限りの蘇生措置が行われる――。

そして、同席していない兄にも話して、家族で考えてほしいこと、一度、文書を署名した後で撤回もできることなど説明を受けた。

先生は、自分の親についてだったら同意する、とも言った。

話を聞いた後、母と2人揃って病室へ。その不自然さと、今聞いてきた話、父のいないところで父の最期の時の話をしてきたことへの後ろめたさで、なんだか気まずかった。

家で母と話す。母は同意するという。はっきりしないが、父は以前、そのようなことを言っていた、たぶんそういう考えだろう、という。
兄に電話する。分かった、と言ったあと、「父はなんと言っているのか」。
「聞けないよ」と答える。それ以上、兄は何も言わなかった。

たぶん聞いたら同意しただろう。
同意したこと自体に迷いはないけれど、尋ねるべきだったのかは分からない。

自分のことは自分で決める。ましてや自分の命に関わることだ。
でも余命と同じく、いざ現実となると口に出来ない。聞くことで、父に死が迫っていることを実感させ、ショックを与えることを恐れたのだと思う。

だから現実になる前に考え、話し合い、意思を示しておくべき――となるのだろうけれど、以前に意思を示していたとして、どこまで効力を持つのだろう。

蘇生術が有効かどうか、場合によって違う。交通事故なんかだったらそれで一命をとりとめ、以前と同じかそれに近い状態で生きていくこともあるし、90歳のおばあさんが、倒れて運ばれ、心臓マッサージで脈が戻った後はすっかり元気になったという話も聞く。

とかく、平穏死、自然死という言葉が取り沙汰されるなかでは、蘇生術やその手前の胃ろうなどの措置は否定されがちだけど、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが生きるにはそれらの措置が前提だ。病状×治療のケースごとでしか判断しえないし、個々人で考え方も、生き方も違う。

個人の意思といっても、あるドキュメンタリー番組で、身寄りがなく、末期がん(やや認知症?)のお年寄りに、治療をどうしてほしい?と聞くと、「出来るだけのことをしてほしい」と答える場面を見て、暗澹たる気持ちになったことがある。漠然と意向だけ聞けば、誰だってそう答えるだろう。自分の病状や、治療の種類、その結果どうなるのかを知らなければ判断しにくいし、その情報は主に医師が持っている。だから医師が判断を誘導する側面もある。

何がその患者にとっていいことなのか、それが医師が判断を導く時の基本。それこそヒポクラテスの誓いだ。わざわざ誓うのは、一歩間違うと、自分が儲けるためだったり、はたまた国の医療費を削減するためだったり、別の方向に逸れかねない危うさを孕んでいるということだ。

10月30日 緩和ケア

10月30日 火曜
前日は空きがなく特別室に入ったが、緩和ケア病棟(のようなもの)に移る。

緩和ケア病棟では、手術や抗がん剤などの治療による回復が望めないがん患者に対し、痛みを取り除くことを主目的に心身両面からケアを提供される。ホスピス、と言った方が通りがいいだろうか。

近ごろでは、「苦痛を取り除く」という緩和ケア自体は、末期に限らず治療と並行して、また医学的な面に限らず行われるべきとされているそうだ。医師・看護師だけではなく、薬剤師、栄養士、ソーシャルワーカーなどがチームを組んでケアにあたる。

(のようなもの)と書いたのは、「緩和ケア病棟」を名乗るには専属医師の数など基準があって、ここの病院では医師がほかの病院に移ったため、緩和ケア病棟の看板を下ろしていたから。実際の役割は同じだということだった。

病棟のドアには小児科のような飾り付けが施されていて、病室はすべて個室。広々とした談話室にはピアノが置かれ、花壇のあるベランダに出ることもできる。家族が休憩できる和室やキッチンもある。
確かに緩和ケア担当の医師、薬剤師、栄養士はそれぞれ病室を訪れたが、どこまで連携がなされているかはよくわからなかったし、特に生活面、精神面へのケアらしきものもなかった。一度、一緒に10人ほどで回診に来た時には、あまりにものものしくて気後れした。

毎日のように訪れ、頼りにするのはやっぱり泌尿器科の主治医の先生だった。

父は前に手術の際、泌尿器科の病棟に空きがなく、この緩和ケア病棟に入院して、「何か雰囲気が違う。ここにはいたくない」と言っていたらしい。
治療が主目的の一般の病棟は看護師さんが慌しく行き来し、患者の出入りも激しい。がんを治すため、抑え込むために病院に通っていた当時の父は、静かで穏やかな緩和ケア病棟に違和感を感じたのだろう。自分は違う、と思ったのかもしれない。そして、緩和ケア病棟に入る状態になることを恐れていたのかもしれない。

この病棟で一番気に障ったこと。
ベッドに寝たままで入浴できることがウリらしく、その様子をポスターにして貼ってあるのだが、そこに「最期まで日常生活をサポート」と大きな文字が躍っていた。あまりに無神経だと思った(後にアンケートにも書いた)。そのポスターの前を父と通りかかるたび、父の目に入らないようヒヤヒヤしながら自分の体の位置を変え、遮った。

痛みの緩和自体は医療用の麻薬が投与される。それについては別項で。

10月29日 余命

父との最期の日々を出産の前に綴っておこうと思ったけれど、かないませんでした。産後、子が寝たすきに書き進めていこう。ちょうど1年前の日々なので暦も重なり、去年の今ごろは、と思い巡らすこと多々でもある。
果たして完結するだろか…

時系列+項目ごとでいきます。

10月29日 月曜
末期がんと告げられてから3週目の外来。そのまま入院する。

3週間前はクルマを運転し、天ぷら蕎麦を食べていたのが、みるみるうちに、うどんやゼリーしか受け付けなくなった。3階の寝室と移動するのが辛いので、ベッドを1階に下ろし、さらに電動リクライニングのベッドを購入。それまで父は主治医から入院を勧められていたものの避けていたが、あまりのしんどさに入院を口にするようになっていた。

診察室でもベッドに横になる有り様で、主治医の先生はすぐに病室を手配してくれ、私は父の車イスを押して病室へ、母は「入院に関する話があるから」と先生に呼び止められ、診察室に残った。

母が聞いた話は、余命1カ月。

父には余命は知らせなかった。

父はずっと一人で病院に通い、主治医の先生と話をしていた。先生は後に、「お父さんは社会的な立場(=家業のこと)があるので、そのつど病状は伝えていた」と言っていたが、それでも余命については家族に委ねた。

母によると、父は病気になる前、「余命は知らせてほしい、やらなければならないことがあるから」と言っていたらしい。自営業だから、会社のことを整理しなければならない。でも、母は「言えない」と言い、私も言った方がいい、とは言わなかった。

病気になった後こそ、どうしたらいいのか聞いておくべきだったのかもしれない。でも、現実的になるほど「もしもの時」のことは話題にしづらい。

それにタカをくくっていたのだと思う。近づいてくる死から目を逸らしていた。最初にガンと聞いた時も、転移したと聞いた時も、再発したと聞いた時も。
手術すれば、定期的に検査していれば、抗がん剤治療で・・・
父に掛ける言葉も、自分自身にもポジティブな方向に持って行っていた。
末期と聞いた時ですら頭をよぎったのは、もう季節が一巡しないかもしれない、だった。そんな猶予はなかった。

入院で体調が上向き、退院後は少しだけど食事をとって、工場にも足を運ぶまで元気になり、兄と「1カ月なんて間違いじゃないか。とてもそうは見えない」と疑ったほどだったけれど、最期の日はきちんと1か月半に訪れた。

1カ月と聞いた時点で、父についていようと決めた。
勤めていなくて、子どもがいなくて、よかったと思った。
父が夫のことを気にするので、やむなく何度か数日、家に戻った以外はずっと実家にいた。仕事はちょうど空いていた時だったけれど、断ったものもあった。
でもそれは、1カ月と聞いたからこそ出来たこと。短距離走のようなものだ。長距離走となると、さらにゴールが見えないとなるとペース配分を考えなければならない。その点、介護はより難しいのではないかと思う。
実際、調子がよい時には、いつまでもこの状態が続くんじゃないかと思えてきて、希望と同時に、自分の生活への不安も芽生えた。「いや、続くのはいいことなんだから」と不安を打ち消そうとしたけれど、現実問題、何か月も実家に居続けるわけにはいかない。

医師にとっても分かることばかりではないだろうけれど、余命とその伝え方は患者と家族を左右する。

ある人は、離れて暮らすお母さんを見舞うと余命わずかと見てとれたので、仕事を調整して看病しようと医師に確めたものの否定された末、1か月後に亡くなって心残りを抱えている。

またある人は、旦那さんが医師から何度も余命宣告され、そのたびに本人はショックを受けるので、娘さんが医師にもう言わないでくれ、と頼みに言ったという。

余命4カ月と告げられたお父さんが、体力が衰えるからと治療はせずに自分の会社の残務整理にまい進して、すべて片付いた8か月後に亡くなったという話も聞いた。

父も取引先への連絡から在庫の算段までつけて逝った。
その後、会社のことで「これをしてもらっておけば」ということがないほどに。

父は余命を知りたかっただろうか、知ったら何か変わっただろうか。
思い残すことがあるだろうか。
わからない。

10月22日 立場の逆転

昨年12月に父が他界した。62歳だった。
5年前にガンがわかり、10月に末期と告げられてから2か月後のことだった。

病室で、そして自宅で父の傍で過ごした日々を綴っておこう。
時間が経って記憶は少し薄れてしまったけれど、時間が経ったから整理できるところもあるし、思い返すとすぐに後悔に苛まされることは減ったから、よりフラットに捉えられるかな。

ほんとは父にまつわって見聞きした景色から、ヨノナカの現状とか仕組みとかに視点を広げてみたいと思っていた。でも、とてもそこまでは出来そうにないから、すべてが「*事情には個人差があります」という注釈つきです。

10月22日 月曜
外来に行く父に付き添う。

最初にガンが分かった時も、転移、再発が分かった時も、末期だという時にもどこかぴんと来ていなかった私が、決定的に事態が変わったのだとようやく気づいたのは、通院する父に付き添った時だった。

末期と告げられた後、急激に体調が悪化した父は、それまで自分で車を運転して通った病院にタクシーでなければ行けなくなった。歩くのもしんどそうなので病院の入口で備え付けの車イスに乗るよう勧め、押して廊下を進んでいく時、あぁ親との関係が逆転して、親をケアする立場になったのだという思いに打たれた。

大学から親元を離れて一人暮らしをし、社会人になって経済的にも自立し、結婚して自分の家族を持ち、実家にはたまに電話したり、盆正月に顔を出す程度。もともと高校までも進路もなにも自分で決めたりと、親に精神的に依存しているところはないと自分では思っていたけれど、親が移動に助けを必要とする事態に直面して初めて、心のどこかでは頼れると思っていた、頼っていたと分かった。そしてもう頼るのではなく、自分が支える立場になったのだと。

同時に、父を看ることと同時に、父がいない今後に不安を募らせる母を精神的に支えなければならない役割にも思い至った。

普通は自分の子どもが出来て、育てることで先に、自分が誰かを全面的に支える役割になるのだろうけれど、それがなかった私には、新鮮な衝撃でした。

永遠の楡の木

週刊エコノミスト』2013年7月16日号の特集「仕組み債残酷物語2」で記事を書きました。冒頭こちら。

特集:仕組み債残酷物語2 法廷で食い違う証言 2013年7月16日号 - 世界と日本でいま起きている経済事象の核心をあますことなく伝えます

特集のメインの記事(編集部の先輩執筆)はこちら。

特集:仕組み債残酷物語2 トラブルの実態 2013年7月16日号 - 世界と日本でいま起きている経済事象の核心をあますことなく伝えます

仕組み債という金融商品をめぐる取材のなかで、思い返したのが『マスターキートン』12巻の「永遠の楡の木」という物語です。

ロンドンで売り出し中のお屋敷の前に毎日佇む老人。破産した屋敷の元主人、フェンダース卿だった。卿はロイズの保険引受人を長年続けていたが、引き受けた保険金の支払いに全財産をあてざるをえなくなったのだ。庭にたつ楡の木は、落雷で真っ二つに割れ、フェンダース卿はその木に自分を重ねていた。
売れっ子作曲家である息子のロバートは厳しい父に反発してきたが、打ちひしがれた父の姿に作曲への意欲を失っていた。
そんなロバートにキートンはある提案をして――。

日本の漫画界が誇る不朽の名作、『マスターキートン』。
折に触れて読み返しているので、ほとんどの話が頭に入っているのだけれど、そのなかから、なぜアクションなしのこの静かな一篇を思い出したかというと、保険というものの仕組みからです。

ロイズは保険会社といっても、ロイズ自身が保険を引き受けるわけではなく、保険取引の場を提供するだけ。
保険金を支払うのは引き受けた個人。無限の支払い責任を負う。
3年間で地震や暴風雨、湾岸戦争と天災人災が重なって(この巻は1993年初版)、支払いのできない引き受け人も出てきて、フェンダース卿はその一人だった。・・・ちなみにキートンの副業(本業?の考古学より稼ぎはいいけど)は保険の調査員。ロイズの依頼で調査をすることが多い。

仕組み債とは、買った人が保険を引き受けているようなものです。

一見、債券に見えます。債券は一定の間、お金を貸して利子を受け取るもの。
仕組み債も発行元がいて、元本があって、償還期間がある。利回りや償還額は条件によって変わる。
でもその実は、条件がドル円相場だったら円高保険、日経平均株価だったら株安保険というように、円高や株安になった時に保険金を支払わなければならない。ロイズの保険と違うのは、支払いが無限ではなく、元本を超えない点。
だいたい最初は高利回りで、その後も円安や株高という条件次第で高利回りになるけれど、それは受け取る保険料。その代わり、満期までの間、保険を引き受けたことになる。
円安や株高の時には早期償還されるという条件は、保険を掛けている方が「もうこれ以上、保険料を払うのは割に合わないからやめる」ということ。別に引き受け手にとっていい条件なわけではない。

保険といって思い浮かぶのは生命保険や自動車保険でしょう。
保険料を受け取るかわりに、事故の時には保険金を支払うのは保険会社の役割です。保険会社は事故の発生率や死亡率を計算して、保険料を設定して、集めた保険料から死亡時や事故時の保険金を支払っています。
保険加入者がお互い、もしもの時に助け合う仕組みを、保険会社が運営しているのです。だから、生保とかは「相互会社」といったりします。

でも、天災人災の際には確率論を超えた莫大な保険の支払いが生じて、個々の助け合いシステムだと共倒れになる恐れがあります。
だから生命保険や医療保険では戦争が除外されていたりします。
その点をクリアするのが、ロイズのような、個人が無限の支払いを引き受けるというシステムなのでしょう。それでも天災人災が相次ぐと、フェンダース卿のようなことが起こるわけですが。

保険料が入るとはいえ、確率が測れないような、無限の支払い責任をなぜ引き受ける人がいるのか。
それは息子ロバートが父の破産の理由を聞いて発した言葉が物語っています。

「貴族の体面を重んじすぎて、無理な額を引き受けたに決まっている」。

代々伝わる、莫大な財産を持つ貴族としての、ノブレス・オブリージュ(高貴なるものの義務)だったのでしょう。階級社会のイギリスならではの発想であり、システムです。

一方の仕組み債
円高や株安が起こる確率も、生保の死亡率や損保の事故発生率のように、これまでのデータをもとに計算できます。それに、「今は皆、こっちの可能性が大きいと考えている」というように、市場で計られる現時点の期待値もあります。
金融の世界では、そうやって、お互いが計算し合って保険を掛けたり、引き受けたりしています。近年、発達してきた金融工学とは、さまざまなデータを基に、ある事柄の価値やリスクの大きさ、確率を計算して、金融商品を作ったり、取引を判断したりするものです。

でも、仕組み債の現実は、そんなことを何も知らないまま、保険を引き受けていることさえ知らないままに、金融の世界とは無縁な人たちが資産を“運用”するつもりで、あるいは“預ける”つもりで、保険金支払い原資として差し出しているのです。貴族ではない彼らの資産は、なけなしの退職金や老後の資金です。

過去のデータから確率を計算するといっても、金融の世界は天災人災と同様、不確実性がつきまといます。「100年に一度」の暴落が起きたりするし、確率を計算する金融理論でノーベル賞を受賞した学者も、相場変動によって会社をつぶしています。

確率論に基づく損得だけで計算すると、どうしても保険の引き受け手は不足する。不確実性を引き受けるのは、ノブレス・オブリージュか、そうでなかったら、無知しかないということなのでしょうか。

無知が求められるのは、不確実性があるゆえばかりではありません。皆が同じようにリスク・リターンの計算を高度化させていくなかでは、損得の捉え方が一緒になっていって、儲ける余地も失われていきます。要は、計算なしで、わずかな保険料と引き換えに大きなリスクを引き受けてくれる人が必要なのです。
証券業界のある人に「デリバティブ金融工学を使った商品。仕組み債もこの一種)はプロ同士で取引していればいいのに」と言った時に、返ってきた一言がずっと頭に残っています。「シロウト巻き込まないと儲からないから(笑)」

仕組み債の問題が表に出てきたのは、リーマンショックで円高・株安が進み、損失が膨らんだからです。だからといって、「起こるはずがないことが起こったのだから仕方がない」と済ませられはしません。元々、もしものことが起こった時のための保険ですから。
「中身をよく見ずに買った方が悪い」といなす人は、いつか自分も同じ目に合うでしょう。複雑化した世の中、すべてを自分の力で把握することは出来ません。
ノブレス・オブリージュ」が求められるのは、知識や情報を多く持ち、その差につけこんで客から利益を得ることも出来る立場であるように思います。