10月29日 余命

父との最期の日々を出産の前に綴っておこうと思ったけれど、かないませんでした。産後、子が寝たすきに書き進めていこう。ちょうど1年前の日々なので暦も重なり、去年の今ごろは、と思い巡らすこと多々でもある。
果たして完結するだろか…

時系列+項目ごとでいきます。

10月29日 月曜
末期がんと告げられてから3週目の外来。そのまま入院する。

3週間前はクルマを運転し、天ぷら蕎麦を食べていたのが、みるみるうちに、うどんやゼリーしか受け付けなくなった。3階の寝室と移動するのが辛いので、ベッドを1階に下ろし、さらに電動リクライニングのベッドを購入。それまで父は主治医から入院を勧められていたものの避けていたが、あまりのしんどさに入院を口にするようになっていた。

診察室でもベッドに横になる有り様で、主治医の先生はすぐに病室を手配してくれ、私は父の車イスを押して病室へ、母は「入院に関する話があるから」と先生に呼び止められ、診察室に残った。

母が聞いた話は、余命1カ月。

父には余命は知らせなかった。

父はずっと一人で病院に通い、主治医の先生と話をしていた。先生は後に、「お父さんは社会的な立場(=家業のこと)があるので、そのつど病状は伝えていた」と言っていたが、それでも余命については家族に委ねた。

母によると、父は病気になる前、「余命は知らせてほしい、やらなければならないことがあるから」と言っていたらしい。自営業だから、会社のことを整理しなければならない。でも、母は「言えない」と言い、私も言った方がいい、とは言わなかった。

病気になった後こそ、どうしたらいいのか聞いておくべきだったのかもしれない。でも、現実的になるほど「もしもの時」のことは話題にしづらい。

それにタカをくくっていたのだと思う。近づいてくる死から目を逸らしていた。最初にガンと聞いた時も、転移したと聞いた時も、再発したと聞いた時も。
手術すれば、定期的に検査していれば、抗がん剤治療で・・・
父に掛ける言葉も、自分自身にもポジティブな方向に持って行っていた。
末期と聞いた時ですら頭をよぎったのは、もう季節が一巡しないかもしれない、だった。そんな猶予はなかった。

入院で体調が上向き、退院後は少しだけど食事をとって、工場にも足を運ぶまで元気になり、兄と「1カ月なんて間違いじゃないか。とてもそうは見えない」と疑ったほどだったけれど、最期の日はきちんと1か月半に訪れた。

1カ月と聞いた時点で、父についていようと決めた。
勤めていなくて、子どもがいなくて、よかったと思った。
父が夫のことを気にするので、やむなく何度か数日、家に戻った以外はずっと実家にいた。仕事はちょうど空いていた時だったけれど、断ったものもあった。
でもそれは、1カ月と聞いたからこそ出来たこと。短距離走のようなものだ。長距離走となると、さらにゴールが見えないとなるとペース配分を考えなければならない。その点、介護はより難しいのではないかと思う。
実際、調子がよい時には、いつまでもこの状態が続くんじゃないかと思えてきて、希望と同時に、自分の生活への不安も芽生えた。「いや、続くのはいいことなんだから」と不安を打ち消そうとしたけれど、現実問題、何か月も実家に居続けるわけにはいかない。

医師にとっても分かることばかりではないだろうけれど、余命とその伝え方は患者と家族を左右する。

ある人は、離れて暮らすお母さんを見舞うと余命わずかと見てとれたので、仕事を調整して看病しようと医師に確めたものの否定された末、1か月後に亡くなって心残りを抱えている。

またある人は、旦那さんが医師から何度も余命宣告され、そのたびに本人はショックを受けるので、娘さんが医師にもう言わないでくれ、と頼みに言ったという。

余命4カ月と告げられたお父さんが、体力が衰えるからと治療はせずに自分の会社の残務整理にまい進して、すべて片付いた8か月後に亡くなったという話も聞いた。

父も取引先への連絡から在庫の算段までつけて逝った。
その後、会社のことで「これをしてもらっておけば」ということがないほどに。

父は余命を知りたかっただろうか、知ったら何か変わっただろうか。
思い残すことがあるだろうか。
わからない。