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11月10日 店じまい

また、この季節が巡ってきた。昨年、父の最期の日々に傍にいたことを書き記そうとしたものの、緩和ケア病棟を退院したところでタイムオーバーになってしまった(年末のバタバタ&引っ越しのため)。その後も1歳までには、とか思っていたけれど、なんとなく気が乗らないままきた。

でもやっぱり同じ季節を迎えると思い出す。日付に。風景に。昨年は子どもを迎えたばかりの頃だったから、その記憶も一緒に。

たとえば、公園の色づく木々に、父の代わりに通った病院の玄関先にあった真っ黄色のイチョウの木を。と同時に、生後1カ月経って、そぉっと抱えて近所をワンブロック歩いていたころのことを。家の裏の神社の木が赤くなって葉が落ちるまでを日々眺めていた。その木の下で、鳥居の手前から、今日も子が無事でありますようにと祈った。

最後まで書き上げられたら、次の景色が開ける気がする。目次は出来ている。命日まで、同じペースで書いていけるか。

11月10日 退院したばかりの父は週末で帰省した兄を従えて工場にこもっていた。

もう今年度限りで工場も、店も閉めることを決めていた。在庫の処分のあてをつけなければならない。はるばる北陸から見舞いに訪れた義兄夫妻の相手もそこそこに工場に戻っていった。

入院中も、体調が上向くとすぐに、得意先に順に電話を掛け、休業の旨、伝えた。そして、手紙の口述筆記をさせた。長期休業し、体調を万全にすることに専念した上で再起をはかりたい、以前と変わらぬ姿をお見せする・・・という言葉に、気に留めないそぶりでiPadに打ち込みながら胸が詰まった。

従業員の人に在庫の量を調べるよう伝え、その一覧表を見ながらあれこれ算段していた。ベッドの上で見本のお茶の葉を触ったり、香りを確かめたりしたこともある。入院中の私は、父の指示を受けて、あれこれ作業をし、母に指示を伝えたり、母からの報告を上げたりと付き添いというより社長秘書のようなものだった。遠隔操作はもどかしかったのだろう。退院した日は家に戻るなり工場に向かった。

それと、私にクルマのディーラーに連絡するよう言った。
鎮痛麻薬を使うので、もう運転はできない。自分の名義のクルマはあとあと厄介だと思ったのだろう、すぐ売れという。クルマが好きで、でも仕事柄ワゴンばかり乗っていて、ようやく数年前に手にいれたセダンだった。白のTIARA。ラインがきれいで乗り心地がいい、よいクルマだった。クラウンでもプリウスでもないところが父に似合っていた。帰省するたび駅まで送り迎えにハンドルを握ってくれる父はどことなくうれしそうだった。

翌日にやってきたディーラーの営業マンは、営業所に戻って手続きを終えると、すぐに引き取りにやってきた。私は名残惜しくて走り去るクルマを眺めていたが、父は処分するように言ってから見もしなかった。

店の通信販売のお客さんたちに、来年の新茶に入らず休業する旨のハガキを送ると、注文がどっとやってきて、母は発送作業でてんてこ舞いになった。
父は工場に足を運んでは、疲れるとベッドに横になったり、リビングのテーブルで経理の帳面を繰ったりしていた。工場の機械を引き取る会社の人が下見にきた。半年前に祖父が亡くなっていたので、税理士さんがたびたび来て相続の打ち合わせをしていた。

11月も末になると父の調子が悪くなり、母に店のシャッターを下ろさせた。張り紙の文言は二転三転した。一時休業、廃業、店主体調不良のためと入れる、入れない。文字の大きさ。途中から母の意見と食い違い、父ににこっそり変えた文面になった。雨にぬれても大丈夫なようにビニールに包んだ紙を何度も貼り直した。

在庫を引き受けてくれたお得意先に主だった荷物が発送され、めどをつくのを待つようにして父は逝った。祖父の相続の手続きもすべて終わっていた。ずいぶんと始末がよい最期だった。一代で大きくした身代をきれいに閉めていった。

入院中、私の夫に「私はついに、息子に『会社を辞めて後を継げ』と言うことはできなかった」と漏らしていた。兄は考えたこともあったようだ。というより、考えるべき選択肢として常にあったのかもしれない。
兄が手伝った日の父はずいぶんと張り切っていた。

余命わずかという時、人は何をしようとするのだろうか。
元気な時に考えてみても、実際にその時になってみるとまったく違うのだろう。
1カ月の余命は告げていなかったけれど、末期がんとは聞いていたから、残りの日々が限られていることは分かっていた。父はしなければならないことをしていた。

5年前にがんが見つかって、手術することになった時、父は事業を縮小した。卸の取引先を絞り、数人いた従業員も1人になった。その後、繁忙期を外して手術を受けながらやってきたが、この年の初めに再発がわかり、抗がん剤治療を受けることになって、かなり迷ったようだ。いっそ事業を畳むか、店の小売り分だけ工場で作るか。結局、さらに縮小して卸も続けた。毎月の抗がん剤治療も繁忙期を外して予定を組んでもらった。後から分かったことだが、取引先からの引き留めもあったようだ。

仕事、とひとことで言っても、個人商店のこと、経営者であり、営業から買い付けから工場での肉体労働まですべてこなす。精神的にも体力的にも負担であることは確かだけれど、仕事をやめたら、病気だけになっちゃってかえって辛いから、と母は言っていた。私もそう思う。ずっと仕事、仕事で来て、結局、骨休めしたり、楽しみに時間を使ったことがなかったんだな、とも思うけれど、仕事が最期の日々の支えになった面もあるように思う。

母になってわかった10のこと(7〜番外)

その7.他人の目が気になる

お腹にいる頃からだったと思う。やたらと人の目が気になるようになった。いや、人の目ではない。漠然とした、世間の目だ。生まれてきたら加速した。自分は母親として後ろ指を指されるようなことをしていないか。母がやるべきことをしているか。たとえば子どもが泣いた時に抱きあげるのが遅くはないだろうか。産後、帝王切開だったこともあり痛み止めを勧められたが、普段から生理痛でも頭痛でも飲みつけないので断っていた。ある日、薬剤師さんから「痛み止め、飲んでいないんですか?ほかのお母さんたちは、赤ちゃんが泣いた時にさっと抱っこしてあげたいから、お腹が痛いとすぐに動けないからって飲んでいますよ」と言われ、自分が赤ちゃんのことを考えずに自己都合で行動しているように思えてへこんだ。

振り返ると、これまでの自分はすこぶる傍若無人だった。自分がすべて正しいと思っていたわけではないけれど、自分が思ったように振る舞って何が悪いと開き直り、直接言われたことさえ、たいして気にしていなかった。

どうしてこんなに180度変わってしまったのだろう。

これまでは、自分が行ったこと選んだことの結果はすべて自分に跳ね返ってきた。痛い思いをするのも自分なんだから、自分が納得できるようにしたい。人から言われたことや、世の中の大勢は、あくまでも他人の見方に過ぎなかった。

ところが、母となると結果を負うのは子ども。子どもにとっては、母は選べない。「わたしがあなたを選びました」なんて絵本があって、産院の母親教室で助産婦さんが朗読していたけれど、そんなはずはない。母は子にとって替えのきかない存在であるのに、小さいうちは子どもの世界のほとんどすべてを規定してしまう。すると、自分がすべて正しいとは思えないことが裏返って、自分が思う通りにすることが、子どもに悪影響を及ぼしてしまうのではないかと怖くなる。せめて世間一般からみた母基準をクリアしておきたい、と他人の目、世の声にあるはずもない母基準を意識する。

母親を批判する世の中の声には、すべからく胸が痛む。
ベビーシッターに預けて子が亡くなった事件をはじめ、子どもを置いてのシングルマザーのデート、電車のなかで子どもを泣き止ませない親、等々、母親失格、と指差す先が、いつ自分に向けられるのかと怖い。何をもとに失格と言われるのか分からないし、言われることすべてをクリアすることはできない。言われて「でも自分は母親失格ではない」と言い返す自信もない。

母基準のポイントは多々ある。
最初のハードルは自然分娩&母乳育児か。年配の人に「おっぱい出てる?」と聞かれる時ほど出ていてよかった、出ていなかった時の精神的負荷たるやいかばかりか・・・と思ったものだが、これは身体のことなので自分ではどうしようもない部分もある。

自分でどうするかを決めるものの方がより、他人の目が気になる。
たとえば予防接種。子どもを預けること。
論争になりがちなものとして、公共交通機関でのベビーカー、そもそも子連れで乗り物や公共の場に出ること。
最近ではハーネスなんてのもあった。

だから特に乗り物では緊張する。まだ軽いから抱っこひもで出かけることが多いのと、幸い大人しいことが多いからだろう、今のところ辛い思いをすることはなく、話しかけられたり、あやしてもらったり、席を譲ってもらったりと優しい応対ばかりで、それは老若男女問わない。

直接、自分が聞いていない声に過敏になるのはマイナスだとも思う。
論争でも批判は「特にマナーの悪い親」を念頭に置いているのに、それに多くの親たちが傷ついて反論し、反論すること自体がまた批判を呼ぶ・・・という構図になっているように見える。おそらく当の批判対象者のあずかり知らぬところで。

その8.今が分かれ道だと思うと焦る

退院してすぐの頃、今、泣いているのを放置したらサイレントベビーになってしまうんじゃないか、と焦っていた。
親が呼びかけに応えないと、あきらめて呼びかけること自体をやめてしまうという説が頭のどこかに残っていて、それに縛られた。
テレビを見せると光や音の強い刺激に慣れてしまうのでは、一度濃い味を覚えると、薄味では物足りなくなってしまうのでは・・・。
生まれたばかりの白紙のところへ幼少期の刷り込みは大きいのだから、今の親の行動が子のあり方を左右してしまうのではと恐れる。
極端に言えば「今○○しなければ/○○すると、ダークサイドに落ちてそのまま」というようなもの。
確かに親の影響は大きいだろうが、親が子のすべてを決められるというのは、ある意味、傲慢だろう。
だから一日一日を丁寧に接しようと思えればいいけれど、振り返って取り返しのつかないことをしたと思い、今何をすれば後悔しないかと悩んでは本末転倒だ。

自分のことでも、今、預けて働きださなければ、そのまま専業主婦だという強迫観念がある。
保育園の1歳児募集は激戦で、2歳以降は募集の枠自体が少ない。だからゼロ歳で入れようとする人が多い。育休中の有利な人たちがそうするなかで、不利な自分がのんきにしていていいのか。仕事のブランクは長ければ長いほど、マイナスだ。感覚も、人とのつながりも薄れてしまう。
子がある程度、大きくなってから仕事を再開している人はいる。仕事のブランク、専業主婦を経たから分かったこと、出来ることもあるという。
会社を離れた時点で、人並みの形を追うのではなく、自分の道を歩くと決めたはずだった。
それでも、今が分かれ道だという焦りからなかなか抜けきれない。

その9.自分を守ってくれる言葉には2種類ある

産前から産後までお世話になった助産師さんがいる。産院ではなく、個人的なつながりのある方だ。
あれこれと辛い時、掛けられた言葉にこみ上げてくるものがあって、そして緩むところがあった。
今、その言葉をここに書いたとしても、そうは伝わらないかもしれない。
きっと、私のことを知り、その時の私の様子を見て、発せられたから生きた言葉。

その7に他人の目が気になる、と書いたが、論争などで、世間様の声に対して切り結んでくれる人がいる。
今の母の事情や、医療の実際面を説明する。批判のおかしいところを指摘する。
読んでいると少し気が楽になるし、論争を鎮める力もある。
本などの形で「そんな声は気にしなくてもいいよ」と言ってくれるものもある。

前者は私宛ての言葉。後者は私の盾となる言論。
この二つ、とっても対照的だ。
前者は人と人との間で発せられるもの。医療はじめ保育、教育、介護などケアに属する場があてはまるだろう。
後者はマスコミ的言論といえるだろうか。一定の知名度なりなんなりのある人から不特定多数の人に向けられたもの。
職業柄、これまで後者の方にはなじみがあったし、それが言葉の力だと思っていたが、前者の、コピーも量産も不可能な、その場にいる人にしかできない言葉を発する役割を、名を広く知られることもない多くの人々が担っていることに思いが至った。

その10.悩みは移り変わる

この「母になってわかったこと」は、生後6〜7カ月の時点で、メモをもとに思い出しながら振り返りながら書いている。あぁあの時は辛かったな、と既に過去形のこともある。だから自分の気持ちを客観視して文章にできているのかもしれない。時間が経って、少し苛立ちや強迫観念が薄れたと思うところもある。その4.父は加点方式、母は減点方式、やその7.他人の目が気になる、など。

首がすわり、寝返りをし、ハイハイをしだし・・・子どもはあっという間に成長していく。ゴキュゴキュとおっぱいを飲む子を眺めながら、うまくくわえさせられずに苦しんだ日を思い返すのもつかの間、今度は離乳食。同じ授乳の間でも、病院では頻回授乳をするように言われ、頑張っていたら、今度はだんだん間隔をあけていく段階に入る。その時々で悩みは移り変るし、対処法も変わる。時には逆にもなる。同じ月齢の子でも様子が違うから、一般論やほかの子のことはそのままあてはめられない。今この時、この子にフォーカスして見ること、向き合うことが第一なのだとおぼろげながら思う。

自分が母である状態に少しは慣れてきたけれど、きっとこの先も、悩ましいことが次々現れては過ぎてゆくのだろう。今から想像がつくことから、思いもよらないことまで。過ぎてしまえば何てことはないことばかりかもしれないけれど、その時々の気持ちを綴っておくことは、その時点の自分にも、ずっと先に読む自分にも、何かしら役に立つように思う。

番外・子と一緒にいるときの自分が好き

生後1カ月が過ぎ、授乳も落ち着いた頃に気付いた。
子どもに話しかけるときの自分の声が柔らかい。顔も緩んでいる。
その後、あやして笑うようになると、笑みが移ったかのように自分の顔もほころぶ。なかなか泣き止まなかったり、抱っこの重みに疲れたりしたときには無表情の時もある。それでも、子どもと一緒にいるときの自分はかつてなく柔らかい。

母になってわかった10のこと(4〜6)

その4.父は加点方式、母は減点方式

内祝とともに送る葉書を用意していた時、夫が書き込んだコメントに目が留まった。その無邪気さに、隔たりを感じた最初の時だった。「パパ業がんばってます」。・・・私には「ママ業がんばってます」とはとても書けない。その後、年賀状に私が書いたコメントは「なんとか母やってます」。それすらも、「果たして母やってる、と言い切れるのだろうか。母がするようなことは一応しているつもりだけど」と考えこんでしまったほど。

聞くともなく耳に入ってくる電話の声。「いや〜、風呂入れてるよ〜」。パパのお風呂は家にいる休みの日だけ。すべてではない週末と、たまの平日。8割方、私が入れているのだが。

休みの日、「オレが見てるから、ゆっくりしてきなよ」という優しげな言葉にも、胸がざわつく。オレが特別に見ることで、特別に自由を作ってもらえる私?そう口にはしたりはしない。ただ、自分から子どもを見ていて、と頼んだりはすまいと意地っ張りになる。

父親とは、お風呂に入れたら、オムツ替えたら、散歩に連れ出したら、「育児をしている」という気になれるものだろうか。「イクメン」評価も似たようなものだ。加点方式であるのはそれだけではない。それまでと仕事の仕方も、休日の習慣も変わらず自分の思う通りで、そこに、家にいるときは気が向けば子どもの顔を眺め、あやす、という楽しみが加わる。

母親である私は生活のすべてががらりと変わった。子どもの世話をすることが前提。常に何か怠っているのではないかという不安がつきまとう。それは、人の目でもあり、自分の目でもある。オムツのウンチを拭うのを時々サボることが母親としてなっていないのではないかと後ろめたい。出かけるにも、子どもと一緒だから、行動範囲や時間帯の制限がある。単独行動は、子どもをどうするかという手立てを講じて、初めて可能になる。働くことも。

同じ親ではあるけれど、心持ちも、置かれた状況も、大きく隔たる。父親は、子どもを預けてはいないのか。母親に、あるいは保育園に。これまで夫婦である時には夫と妻の役割分担をそれほど意識していなかったのに、子どもが出来たとたん、父親=働いて稼ぐ人、母親=育児(+家事)をする人となったようで、どうにも釈然としない。

働いて稼ぐことだって必ずしも自由ではないけれど、少なくとも自分ごと、ではある。育児を自分ごとにすることは、ブレーキがかかる。子どもを思うとおりにしようとしてはいけない、子どもの成果や評価を自分と置き換えてはいけない、子どもに寄りかかってはいけない、と。

その5.ママという名前

以前、「名前をなくした女神」というドラマがあった。幼稚園のママ友同士のドロドロの関係を描いたもので、タイトルの由来は○○くんママ、○○ちゃんママという互いの呼び方だったように記憶している。そのドラマのことを思い出したのは、妊婦時代から通っていたママ教室に、2カ月手前の子どもと初めて行った時。「お名前と赤ちゃんが何か月か、あと最近の様子を」と促され、母たちが順に自己紹介していく途中ではっとした。女の子の場合などすぐに分からなかったのだが、名乗っているフルネームは子どものものだった。私は、妊婦の時のように自分の名前を名乗る感覚でいた。最後に回ってきて、流れに合わせ子どもの名を口にしたけれど、どうにも引っかかったままだった。

区の子育て広場では、名札シールを服に貼る。赤ちゃんは名前と月齢。母親は○○ママ、あるいは○○母という形で子どもの名前を書き、その下に自分の名前を書くよう見本にはある。それでも自分の名前を書いていない人は多い。

結婚し、その後、転職の成り行きで旧姓使用もやめると元の名字が遠ざかっていった。そして今、ようやく名乗るのに慣れた名字も、一番親しい名前も吹っ飛び、自分がつけた子どもの名を名乗る。だから、変わらず名前やニックネームで呼び合える友人にほっとする。互いに子を持ち、子どもの話をしたとしても、軸は自分にある。

名前をなくした女神」では、杏ちゃん演じる主人公が、りょう演じるママと親しくなり、その象徴が互いに○○くんママではなく、名前で呼び合うことだった。ところが、嫉妬から最大の裏切りが・・・(フィクションです)

呼び方よりもっと引っかかるのは、Facebookなどで子どもの写真がプロフィールに使われている時。自分の顔写真を使うのに抵抗を覚えるのは同感だ。だから人によって遠景だったり、正面じゃない顔だったり(私はこれ)、イラストだったりマスコットだったりするのだろう。でも、子どもは、アナタではない別の人、だよね?と揚げ足取りをしたくなってしまう。子どもと一緒の自分、とは似て非なるものだ。子どもと一緒にいることは確かに今のアイデンティティの1つだし、アイデンティティで言えば、ビールが好きな人がジョッキの写真を使う方がよっぽど自分を示しているのではないか。

その6.すみませんは封印

ベビーカーにしても、抱っこひもにしても、子連れはかさばり、不自由である。
気づくと、すみませんを連発していた。ベビーカーで人によけてもらう時、店に入ろうとしてドアを開けてもらった時、スーパーでレジから買い物かごを運んでもらった時。すみませんとばかり言っているとだんだん肩身が狭くなり、人がいるところに出かけるのが気が引けるようになっていく。

今まで子連れの友人といた時に、率先してすみませんと言っていたことを思い返し、反省した。その子にまつわることを同行しているからと勝手に謝っていた。彼女たちは不必要に口にしてはいなかった。

謝ってばかりだと疲れてしまう。自分と子どもの存在を卑下しているようなものだから。それからは、「ありがとうございます」とお礼を言い、「ちょっと通らせてもらいますね」と断りはしても、明らかに迷惑を掛けたのではなければ謝らないようにしている。

ただ、感謝もしてばかりいると時に疲れる。

産後は人に頼ることが多い。特に身内。助かるのは確かなのだが、あなたのためを思って、という100%善意を打ち出されると、感謝して受け取るほかはなく、だんだん自分が何もできないような無力感に浸されて苦しかった。産後は身体を休めなくてはいけないと言われるが、どこか具合が悪いわけではないから、なおさらだ。お金を払うサービスの方が気が楽かもしれないとさえ思い、そんな考えを抱いて、素直に感謝できない自分に罪悪感がわいてくる。

要は頼り下手なのだろう。育児へのアドバイスで「ママが一人で抱え込まず、周囲の人にうまく甘えて巻き込むことが大事」などとあると、ワタシ巻き込み力、足りないかも、ダメな母かも、とへこんでくる。

昨今、感謝という言葉が増えたと感じる。それも、特定の人に直接届けられる感謝ではなく、自分は感謝の気持ちを持っていますよ、と表明するような形で。支えてくれる人たちに、とか出会いに、とか。それは気が楽な感謝だと思う。

身内に手伝ってもらって気が引けるのは、本来自分たち夫婦で完結すべきところをしてもらっている、という核家族の意識も影響しているのだろうか。大家族であればそんなことはないのかもしれない。同じことは介護にも言えるはずで、私が年をとって子どもに面倒を見てもらうことになれば(日々の世話にせよ、介護サービスの手配にせよ)、感謝しつつ申し訳なく感じるのだろう。家族を介護するのは当たり前とされていたことは、する方(特に嫁)を縛ったけれど、される方の気を楽にするという効用はあったのかもしれない。

母になってわかった10のこと(1〜3)

子どもが生まれて早6ヶ月。子どもをめぐることは書かないようにしようかとも思ったけれど、今までとまったく違う自分の様子に驚くことしきりなので時々で備忘録を書き留めていた。整理して残しておこう。

その1.痛いって辛い

最初の1カ月半はズタボロだった。一番辛かったのは乳首が痛かったこと。眠くてしんどいだろうとは覚悟していたが、痛い、は想定外だった。うまくくわえさせられず、浅吸いになって乳首の先に水泡が出来、切れた。吸い付かれると激痛が走った。だから赤ちゃんが泣くのが恐怖だった。おっぱい欲しい、イコールあの痛みか、と。ごまかそうとあやしたりしても泣くばかり。覚悟を決めて胸を出し、歯をくいしばって耐えた。胸に吸い付く赤ちゃんを見つめるという幸せな光景は幻想だった。これが1歳あたりまで続くのかと思うと気が遠くなった。

赤ちゃんは夜ほどおっぱいを欲しがって泣いた。授乳間隔が狭いほど、傷は悪化して痛みが増す。泣く、抱っこして途方に暮れる、痛みに耐えて授乳する、を眠たさに朦朧としながら繰り返し、明るくなるとほっとした。毎夜、夜が明けたら哺乳瓶にしようと思った。元来めんどくさがりやの私は、哺乳瓶を消毒して、ミルクを溶かして、冷まして、なんてヤッテランナイ(特に夜中に起きて)と思っていたけれど、私の最優先感情である「面倒くさい」を「痛い」が上回ることを知った。でも、昼は少し授乳間隔が開いて痛みが治まるので実行には至らず、また夜に同じ思いをした。授乳のたびに薬をぬりたくり、いいと聞いてラップを乳首に貼った。

1カ月健診の時に病院で仕入れた2本目の薬はほとんど使わぬまま、いつしか痛みは治まっていた。夜の授乳も4時間おきといくぶん眠れるようになり、だいぶ気持ちが落ち着いた

その2.産んだって言えない

「第一子が誕生しました」。Facebookにアップした報告に出産しました、とは書かなかった。その後も産んだという言葉は避けている気がする。逆子で帝王切開であることは納得しているつもりだけど、どこかで引け目があるのだろうか。

なかなか子どもが出来ずにきた。授かって、無事にこの世に生まれ出てくれることに御の字。女性には皆、産む力がある、なんて言われても、自分の“産む力”に自信もなければ、試そうとも思わない。医療の力を借り、現代でなければ被っていたリスクも避けられた。私がお腹のなかで育て、そして、これから育てていくことに変わりはない。その重さの前で、子がお腹から出ていくというピンポイントの在り方にこだわってはいられない。

正直、産む体験が出来ないことが残念だという気持ちもほんの少しある。ただ、2人目授かれたとして、リスクをとって選択するほどには体験してみたいという気持ちは強くない。

産んだというのは自分で身体から出したという感じがする。私が言葉を選ぶ時、取り出してもらった帝王切開に、産んだという語感がしっくりこないだけなのだ。

その3.そこに因果関係はない

7ケ月も終わりの健診で切迫早産と言われ、安静を命じられた。切迫早産とは、赤ちゃんがいる子宮の入り口の糊代(頸管)が短くなっていて、予定より早く、赤ちゃんが小さいまま生まれる可能性があること。1週間後の健診でそのまま入院した。2週間後に退院したものの安静は続いた。

入院した時に友達からもらったメッセージにどうしてあそこまで心乱されたのだろう。「ママ少しからだ休めてね、っていう赤ちゃんからのメッセージなのかもね。ゆっくりして」。悪意がないのはわかっている。思いやりのこもった言葉だ。それでも、赤ちゃんをよそに好きなように動いたから切迫早産になったと言うのか、と反発せずにはいられなかった。その罪悪感は自分でも抱きつつ、目をそらしていた。ワーキングマザーである彼女に言われたから余計に、私の方が仕事は少ないし、通勤もないのだから、よっぽど動いていないはずなのに、と悔しかった。赤ちゃんのため、というより、単にだるさに任せて過ごしていたのだが、切迫早産という結果で、それまでの過程がどうであれ、“動き過ぎ”と原因として判断されてしまう。皮肉めいた返信をせずにはいられなかった自分がまた、みじめだった。

なかなか子どもが出来なかった時にも、なぜだろう、何が悪いんだろうという答えの出ない問いがグルグル頭の中を回った。答えは出ないけれど、私の全てが答えになりうる。夜更かしに外食コンビニ食、たまの痛飲と褒められた生活ではないし、少しの間だけど出産の先延ばしもした。

妊娠したら、安産は自分でつくれる、だとか、安産の人がやっていたことはコレ、という本や雑誌のメッセージに引っ掛かりを覚えた。ヨガや体操に食事、夫婦の会話、情報収集、ストレスのコントロール、産む場所の検討と選択、等々。もし安産でなかったら、頑張っていなかったからだと言われるんだろうと憂鬱になった。同じことをやっていても、安産の人とそうでない人がいるはずなのに。何もしなくても、安産の人もいるはずなのに。

だから、私がおっぱいの分泌がよいことに対する義母の「節制がいいのね」という褒め言葉も素直に喜べなかった。決してそんなことはなく、母もよかったそうだから体質に過ぎないというきまり悪さがあった。それに、出が悪かったり、トラブルがあったりしたら何と言われていたのか。母乳にはあれを食べるのは悪い、これも悪いと諸説あって、トラブルがあった時にはそのうちどれかは当てはまりそうでもある。

原因を究明し、再発を防止せよ。何か事件や事故が起こると必ず言われる。マスコミ発想の定型だ。今までどっぷり浸かったこの発想が時に自分を苦しめる。

そこに因果関係はあるのだろうか。それをするのは、あるいはしないのは確かに良いことではあるけれど、良いというのは何かにつけ、という程度かもしれない。しなかったから、あるいはしたから即、マイナスの結果が出たとは限らない。ほかにいくつも原因が絡み合っているかもしれないし、どうにもできないこともあるかもしれない。運も偶然も働くだろう。

こんなことを言うと、努力を否定していると思われそうだ。運命論者めいてもいる。コツコツと努力することで得られるものはあるだろう。ただ、それは分かりやすい形で現れるばかりではないように思う。因果関係に苦しめられるのは、これまで、自分の判断と努力で何もかもコントロールできる、コントロールしたいと思い込んできたことの裏返しなのかもしれない。努力すれば報われる、というテーゼを離れたところに広がる世界に目を向けていたい。

11月8日 退院

11月6日 木曜
緩和ケア病棟(のようなもの)を退院する

入院してすぐは、父は衰弱しきっていたのが落ち着いたため、「入院してよかった」と口にしていたが、3日ほどして回復してくると「いつ出られるかな」などとつぶやくようになっていた。主治医の先生に相談する。在宅緩和ケアを専門にしている医師は静岡では1人。そこに紹介状を書いたこともあるが、かなり多くの患者を抱えているようで受け入れられるかどうかは分からないとのことだった。それに以前のケースは先生が積極的に紹介したというより、患者の方が探して話をつけたうえで転院という形だったようだ。

父は転院には乗り気でなかった。入院と同時に栄養の点滴の管が入り、通院時には飲み薬だった鎮痛用の麻薬が、針を刺したまま固定した注射で24時間投与されていた。訪問診療を受けるとなればそのままでも退院できるけれど、父は針が入った状態で、通常は家族だけの自宅にいるのは不安だという。それに、新しい医師にかかることになり、今の主治医との関係が切れてしまうことにも抵抗があるようだった。

再びそれを主治医の先生に伝えると、鎮痛麻薬の張り薬を使って、“一時”退院する方向で進めてくれることになった。数日かけて点滴を減らして管を抜き(そこで高栄養飲料が紹介された)、鎮痛薬は注射から張り薬に置き換わった。退院後は週1で外来に通い、薬の処方を受けることになる。

張り薬は2センチ角のシールをお腹に貼っておくと、成分が徐々に体に吸収されるというもの。サロンパス久光製薬が作っているところがなるほど、という感じ。毎日交換するものと、1日置き、2日置きのものがあるが、毎日のものが分かりやすいと言われた。

それでも不安で何度も先生に確認したのは「辛くなったらまた入院できるか」。
父だけではなく、入院前のしんどい様子を見ていた母もしきりに気にしていた。
先生は、いつでも入院できると請け負ってくれた。

さらに、私が「外来に通うのがしんどかったら、家族が様子を伝えて薬をもらうことはできるか」と聞くと、先生は「いいですよ、法律違反ですが」と言った。

その時、信頼できる先生だと思った。
医師法では直接診察しないで薬を処方することは禁じられている。それでも、事情に即して、自分が違法と咎められることも覚悟で引き受けてくれた。無診察処方は巷で横行しているし、とがめだてされるケースも稀だから――というわけではないと感じた。

医師法に限らず、法律を杓子定規に運用すれば、現実との齟齬が生じる。かといって、原則として禁じるべきことはあるし、法律でいちいちケースバイケースを規定するのも厄介だ。その時、自分の裁量で、責任を個人で引き受けて、現実を法律に優先してくれる人がそこかしこにいて、世の中なんとか回るのだと思う。それは「みんなやってるから」乗っかるのではなく、あくまで、個人としての判断で。

内田樹センセイがかつてブログで、高校の単位未履修問題に関連してこう述べていた(2006年11月3日)

法規と現実のあいだに齟齬があるときには、「事情のわかった大人」が弾力的に法規を解釈することは決して悪いことではない。(中略)「弾力的運用」ではなく、いくつかの学校では必修科目をネグレクトすることが「硬直化した構造」になってしまっていたということが問題なのである。

超法規的措置」とか「弾力的運用」ということがぎりぎり成り立つのは、それが事件化した場合には、「言い出したのは私ですから、私が責任を私が取ります」と固有名において引き受ける人間がいる限りにおいてである。
法理と現実のあいだの乖離を埋めることができるのは固有名を名乗る人間がその「生身」を供物として差し出す場合だけである

内田樹の研究室: 2006年11月 アーカイブ

退院の前日、父は熱を出した。退院が延期になるのではないかと父は不安げだったが、先生はまったく気にしていなかった。この機会を逃せば、どんどん悪化していく一方で、もう家に戻ることは出来なくなると分かっていたのだろう。私も、たとえすぐに病院に舞い戻ることになったとしても、とにかく一度、家に帰ってきてほしいと願った。

翌朝、早めに病室に着くと父は晴れ晴れとした顔をしていた。熱は下がり、家に帰れるということで興奮しているようだった。さっさと荷物をまとめ、会計や薬はまだ届かないのかと私に看護師に聞きにいくよう急かした。

10日ぶりに父とともに病院の表玄関を通ってタクシーに乗り込み、ほっとした。一つ肩の荷が下りたように思った。家につくと、父はさっそく工場に向かった。