『ゲコノミクス』と『食べることと出すこと』

40過ぎたら、めっきりお酒に弱くなりました。そんな折に目に止まったのが「ゲコノミクス」の文字。スゴ腕投資家には、世の中の穴が光って見えるのでは?とうなりました。この本に対しても、「ゲコの潜在市場?ノンアルビールがもうあるじゃん」と言う人がいたくらい自分の視野からは逃れられないものですが、藤野さんはフィルターバブルに陥りがちなSNSの使い方も一味違っていて、モノの見方を変えるには、行動からだと思わされます。

ここまでがNewsPicsでインタビュー構成を担当した記事でPickした時にコメントしたこと。

newspicks.com

 

この先は、下書きしたものの、入力する時には削った部分です。

お酒というツールには、人と人の垣根を取っ払うパワーがあるけれど、受け入れない人を排除することにも向かいがちです。同時期に読んだ本『食べることと出すこと』(頭木弘樹著、医学書院)では、病で食が制限された著者が気づいたことの1つに「共食圧力」を挙げていました。勧められた食べ物が「踏み絵」に変わるというのです。お酒はまだ分かりやすい方で、無自覚に当たり前を誰かに押し付けていることはきっとたくさんあるのでしょう。「ゲコノミクス」は違うまま場を共有することへの一歩なのだと思います。

www.igaku-shoin.co.jp

 

『負債論』を読むメモ(1)友人にお金を貸してはいけない理由

いまさらだけど2020年の年明けからデヴィッド・グレーバー著『負債論』を読んでいる。日本語訳は2016年11月でずいぶん話題になって、そのあとに出た本でも引用を見かける。厚さ5.5センチの鈍器本である。

 

「第五章 経済的諸関係のモラル的基盤についての小論」を読んでいる時に思ったこと。

 

よく、友達にお金を貸してはいけない、関係が壊れるから、と言われる。

その理由は、友人は負い目に感じて、それまでのような気兼ねのない関係ではなくなってしまうからだろうし、さらに友人が返せなかったら、連絡をとらず顔を合わせないようにするしかなくなってしまうからだろう。

 

でも、この章を読むなかで理由に一つ加わった。

もはや対等でないとする対等な者たちのあいだの合意こそ負債の本質(180ページ要約)

であるがゆえに、

負債が帳消しにされるとき、そのとき、対等性が回復され、なおかつ、二人は背をむけ、関係も解消される。(183ページ)

だとすれば「友人が返したとしても、友人関係は終わる」。

ただし、注にはこう記されている。

たとえば、お金に困っている友人を助けたいが、彼女に恥をかかせたくないとしよう。たいていの場合、お金を渡し、それが貸しであると主張することが、いちばんかんたんな方法である(そして双方ともに、そんなことがあったことを都合よく忘れてしまう)(668ページ)

でもお金を貸せば、友人ではなくなってしまうかもしれないが、お金を貸さずに見捨てたら、それは既に友人ではない。そこで「忘れる」という方便が登場する。

 

ただ、互いに忘れたふりをすることで当面はやりすごせそうだけれど、肝になるのは、お金に困っている立場が入れ替わった時ではないか。

「あの時貸したお金、返して」と言いたくなりそうだけど、それで渡すと関係は終わってしまいそう。借りていた方が「遅くなったけれど返すね」と言い出すのも同じく。

『「その日暮らし」の人類学』(小川さやか著)には、タンザニア都市部の友人関係のなかでの貸し借り模様が紹介されている。

それによると、友人への貸しは「忘れはしないけれど取り立てもしない」。相手は「返すといいながら返しはしない」。自分が困っても「取り立てずに別の友人から借りる」。さらにたまたま困っている時に相手と出くわしても「取り立てるのではなく借りる」。

 

貸し=贈与に近く、友人=借りることができる相手、に近い。その友人は別にお金持ちでなくてもいい。その人もまた誰かから借りて、貸すのだから。

良き友人=困ったときにカネを貸してくれる友人は、たくさんの人間にカネを借りることができる友人なのだ。(197ページ)

「友人にはお金を貸さない方がいい社会」と「友人とはお金を貸してくれる人である社会」、2つの社会は不確実性だったり流動性だったり、さまざまな要素が正反対だからこそベクトルが逆になる。2つの間の転換はどう起こるのだろうか。

映画『小名木川物語』が映すもの


小名木川物語 予告編 (2019)

 

この映画は、撮影の間、この街に流れていた時間を映し出している。

 

物語は春から夏、秋、そして春が来るまでの1年の間。

桜が咲き、夏が近づくと朝顔市、灯篭流し、お神輿。

秋には美楽市、酉の市、町のそこここでお餅つき、そして春が来て桜が咲く。

この映画は、この街に巡る季節を映し出している。

 

この映画は、この街に刻まれた記憶を映し出している。

小名木川がまっすぐ流れる理由。空襲による痛ましい犠牲。

 

この映画は、出来上がった後に流れた時間を思い起こさせる。

今はない場所。もうここにいない人。

 

この映画の物語は、この街で出会った2人が、ともに過ごす間に変わっていく。

 

この街で生きている今日が愛おしい。

誰かとともに過ごす今日が愛おしい。

誰かと出会うかもしれない今日が愛おしい。

 


 映画『小名木川物語』公式サイトには、撮影秘話もつづられています。

この映画が、さまざまな出会いと偶然によって織り成されたことが伝わってきます。

http://onagigawa.com/

コーヒーカップが割れてから

週末のたびにご夫婦で営んでいる近所のコーヒー屋さんにいく。

小さなお店は6席、それもイスはスツールやベンチで、混んでいる時は折りたたみイスが加わる。コーヒーが注がれるのは紙コップや持参のマグ。コーヒースタンドというのがふさわしいかもしれない。

開いているのは金〜日曜だけなので、毎週そのどこかで立ち寄り、コーヒーを飲んで、粉を買い(その週の分)、たまに豆を買う(冷凍ストック分)。お二人のさりげない連携プレー、お客さんと交わす何気ない会話、そして丁寧に淹れられたコーヒーにほっと心が安まる時を過ごせる。

先日、テレビ番組でご夫婦が取り上げられていた。職場で出会ったお二人は喫茶店が好きでデートを重ねたのも喫茶店だったという。いつか喫茶店を開きたいね、と転勤先のヨーロッパではコーヒーカップを買い集めた。

ところが、大事なコレクションは東日本大震災で粉々になってしまう。そして、〝いつか〟ではなく、と動き出した先に、今のお店がある。

このお店がオープンした頃から、サードウェーブのブームのなか、コーヒーを紙コップで出すお店はあちこちに増えた。でも、このお店が素敵なコーヒーカップではなく紙コップで出すのは、特別な意味を持っているように思える。