言えなかった言葉

「私は息子に継いでくれと言えなかったんですよ」。6年前、62歳で死を前にした父が、病床を見舞った私の夫に問わず語りにつぶやいた。
 実家は静岡で緑茶の製造卸小売業を営んでいた。父の死とともに事業を畳み、自宅1階の店舗はがらんどうでシャッターが下りたまま、隣接する工場は貸し倉庫になっている。
 妹の私はお気楽なものだが、長男である兄は就職後に継ぐことを考える節目が何度かあったようだ。父と兄のやりとりを知る由もないが、冒頭の言葉で父の思いに初めて触れた。自分の代で事業を大きくしたものの、緑茶の市場縮小や、兄がグローバル企業で仕事に打ち込んでいることがあったのだろう。
 次号に向けた事業承継の取材で、息子や娘が新事業を展開したり、別の経営者が引き継いだりする潮流を知った。父が生きていたら、違う道があっただろうか。

 

(『週刊エコノミスト』2018年9月4日号 編集後記)