亡き祖父のこと

お盆なので、あるいは終戦記念日なので、5月に他界した祖父のことを書こうと思う。・・・と切り出したが、書き終わるまで2カ月が経ってしまった。

享年89歳。一緒に住んだのは高校までの18年間だった。振り返ると思い浮かぶのは、お茶の粉だらけになった作業着姿。80を超える頃まで実家の茶工場で働いていた。
年を感じさせない祖父だったが、様子が変わっていったのは6年前、車で事故った頃だろうか。大通りから家の駐車場に入る右折で勢い余って門にぶつけたのだ。人にぶつからなかったのはほんとに幸いだった。それ以降、祖父は車に乗らなくなった。
やがて脳梗塞からだんだん足が不自由になり、工場にもあまり入らなくなった。部屋で書き物などして過ごすことが多くなったようだ。

ある帰省の時、写真を撮って現像して送ってほしいと頼まれた。銀杯、それに日の丸の絹布。銀杯は第二次世界大戦で徴兵されたけれど恩給の対象にはならなかった人々に贈ることになったのだという。銀杯か、旅行券かの選択だったけれど、もう足が悪くなって旅行にはいけないので銀杯にしたと言っていた。手ぬぐいより一回り大きうサイズの絹布には桜の刺繍がほどこされ、陸軍神鷲飛行隊・・・・と祖父の名前がある。その時、初めて祖父が戦中に陸軍特攻隊にいたことを知る。
18年一緒に暮らして、特攻の話は聞いた覚えがなかった。実家をはなれた後は帰省も年に1、2度で1泊程度。祖父母の部屋にはお土産を持って顔を出すぐらいだった。

詳細は、翌年完成した自分史に綴られていた。
大学在学中に兵隊にとられ、高校の時にグライダーをやっていたことから航空部隊に入ったこと。そして特攻がはじまり、否応なく志望する。昭和19年11月のこと。山形県の基地で超低空と急降下、体当たりの訓練だけを行っていると翌年7月には出撃命令が下り、仲間がどんどん出撃していく。
7月末、訓練中に時々立ち寄って泊めてもらっていた秋田県の村へ最後の御礼に向かうと、その夜、至急帰還命令が出る。ついに出撃。涙ながらに別れて基地へ戻ってきたところで空襲を受け、飛行機はめちゃめちゃに。そのまま終戦を迎える。同じ部隊で残ったのは12隊のうち、2隊12人だけだった。

1日違い、1隊違いで祖父は生き延びておらず、父も、私もいなかったかもしれない。母方の祖父も、陸軍で地雷の怪我を頭に負い、ずっと不自由な暮らしだった。同じ部隊では多くが亡くなったという。

3年前、祖父は施設に入った。その頃には、バリアフリーとは無縁の家のなかを這って移動する有り様で、お風呂もままならかった。帰省のたび施設を訪れるようになると、以前より話す時間は増えた。移動は車いすになり、建物のなかなら思うようにどこでも動ける。自室で毎日手すりをつたって歩くリハビリに励んでいるのだという。家にいた時よりも生き生きしているようにみえた。周りは女性ばかりで認知症の人も多いから、「自分は元気だ」という自信も後押ししているようだった。車いすで部屋の小机に向かい、短歌を作ったり、本を読んだりしていた。2年後には同じように足が不自由になった祖母も同じ施設に入る。

祖父の様子が変わってきたのは昨年の年末ぐらいだっただろうか。体の不自由が増してきて、気弱になってきたのだ。その前は、着替えも2時間早く起きて自分でやっているのだと誇らしげだったのに、施設のスタッフの手を借りなければ出来ないようになったという。「出来ることだけ自分でやって、あとは助けてもらえばいいんだよ」と言ったが、祖父は自分のふがいなさがやるせないようだった。どう言葉を掛けたらいいのか分からなかった。

4月のなかばに父からメールが来た。「祖父が先週倒れて入院した」という。翌日、実家に向かう。祖父はICUの大部屋で鼻から酸素のチューブを入れて横たわっていた。栄養は点滴のみ。倒れた数日前から食事をとりたがらず、そして貧血で倒れたという。胃カメラの結果、胃潰瘍がひどく、がんの一種である悪性リンパ腫の疑いもあるが、歳もあって手を打てることはない、というのが医師の説明だった。

その後、酸素チューブはとれ、一般病棟に移ったものの、うつらうつらとして言葉も聞き取りにくい様子は変わらない。祖父は手で丸を作ったり、ノートに文字を書いたりといろいろ試すが、私はなかなか分からないのがもどかしくて、つい苛立ってしまったりする。自分の言いたいことが伝わらずにもどかしいのは祖父だろうに。売店に買い物に出て、少し頭を冷やす。

もっと話を聞くことが出来たかもしれないのに、後の祭りとはこのことだ。
目覚めるのを待つベッドの脇で『驚きの介護民俗学』を読む。元民俗学者が、介護の現場で入所者から聞き取りをする。今までの人生、昔の風習・・・話を聞かせてもらうことで、介護する人、される人という立場も逆転する、という。
ひとりひとりの抱える豊かさ。ベッドに横たわる祖父を見ていると、その豊かさが1つ失われようとしているのかと胸が締め付けられた。

ずっと点滴なので、ひどく食べたがる。医師の許しを得ておかゆを口に運ぶが、2、3口しか食べられない。倒れて運ばれた時、胃の状態はもう手が打てないほど悪化していたが、もしもっと早く気がついていたら(といっても施設で定期的に医師の往診を受けてはいたのだが)、もっと早く食事を食べられなくなってしまったかもしれない。祖父は倒れる間近まで、ちゃんと普通の食事をとっていたのだ。入院したり治療したりして「自分は病気」という気分にもなっていただろう。何がいいのかは分からない。
ある日、おかゆを口に運ぶと「おかず」と言う。でも豆腐は受けつけない。はたと気づいた。おかゆに塩を入れ忘れていた。「ごめんごめん」というと笑っていた。それが祖父との最後になった。

5月なかばに病院を移る。救急を受け付けたり、積極的な治療をする病院には、容態が「安定した」患者はずっといられない。転院の話は入院した1週間後には出ていて、父母が1カ所、私が1カ所見学に行っていた。転院先は「療養型」の病院で、点滴は行うが高カロリーのものではなく、延命治療はしないという。祖父は「無理なことはしないでほしい」と以前から言っていたそうだ。祖父の故郷に近い方の病院に決めたが、転院先の空きが出るまでは時間がかかった。折しも新茶の季節で実家は繁忙期。倒れて入院してから転院までちょうどこの繁忙期をまたいだのは不幸中の幸いだった。そう、4月末に祖父はノートに文字を書いて、父に今年の新茶の様子を尋ねていたのだった。

転院した5日後の早朝、父から電話が入った。「おじいちゃん、逝った」。日曜に父母が祖母を連れて見舞った、その翌朝だった。

死去からお通夜まで丸3日あったものの、訃報の紙を作り、葬儀の段取りをし、弔問客に応対し、納棺があり・・・とめまぐるしかった。座敷にある遺体の前に毎日、枕飯を置き、線香を立て、掃除機をかけ、とやっていると、「ちょっとうるさいけどごめんね」とか、「いろいろ大変だよね」だとか話しかけてしまう。

通夜と葬儀の日は車いすの祖母の面倒をみなければならないこともあって、さらに慌ただしく、気を張っていた。喪服を着る母や叔母たちは、着物の小道具やらでもてんてこまい。祖父の死と、些事にまみれている現実とのギャップになんだか可笑しくなる。
亡くなったのだということが迫ってきたのは、出棺前に最後のお別れをする時。気がつくと、それが初めての涙だった。たぶん父母たちもそうだった。白い綿で作られた羽織袴姿の遺体には、日の丸に桜の刺繍の絹布がかけられていた。

後から後悔しても遅いのだから、今あることを大事にしよう、今できることをしよう、と思ったはずだった。それなのに、「そのうち」とたかをくくっているうちに、かなわなくなってしまうことがある、とまた思い知らされる。だから、これを書き上げておこうと思った。