身体を運んだ時間

 岩手県沿岸の三陸鉄道を取材したのは昨年2月のこと。3月、震災から復旧したJR線が三陸鉄道に移管され、運行再開するという報道を機に、1年前の道中が思い返された。
 すし詰めの代替運行バスで高校生に交じって身を縮め、乗り換え待合所の寒さに凍えた時間。更地にぽつんと建つ被災庁舎。かさ上げ工事の車両が巻き上げる、あたり一面の土ぼこり。巨大な堤防。穏やかに光る海。
 1泊2日の出張は駆け足で、ひたすら乗り物に揺られていた。取材というより、ただ眺めている時間ばかりだったが、断片的な光景が焼き付いている。
 それは、文章や写真のように整理され、何らかの意味づけがなされて届けられる情報とは異なる。自分の身を置いて感じたものは解釈し切れないからこそ、こうして残るのだろう。
 そういえば三陸鉄道以来、出張取材をしていない。どこか遠くに行きたい。

 

(『週刊エコノミスト』2019年4月2日号 編集後記)

忘れられない言葉

 書いた記事で訴えられたことがある。通信社の駆け出し記者だったころだ。スクープではない。他紙の後追い記事で一緒に訴えられた。
 訴訟経験者(こちらはスクープで)の大先輩が電話してきてくれてこう言った。「ウソはつくな」。当たり前に聞こえるが、法廷で証言するために日常の仕事の一場面を事細かに振り返れば、なんらか不都合は見つかる。一度ごまかせば、ウソの上塗りを重ねざるを得なくなる。役所や企業の大がかりな不祥事でも、最初の一歩は小さいものだ。
 もう一つ忘れられない言葉がある。「万が一、過失が認められるのならば私の責任です」。担当デスクが報告書に書いていた。目にした時は「いや、書いた自分の責任だ」と反発した。
 その後、ある組織で事が起きた時に現場ですべてを負わされ、切り捨てられて傷ついた人に取材で接し、私は恵まれていたのだと分かった。

 

(『週刊エコノミスト』2019年2月26日号 編集後記)

聞き流せない話

 特集の編集作業が佳境に入る週には、静岡の母に2泊3日で来てもらい、子どもの世話を頼んでいる。校了翌朝は、一人暮らしの母の話し相手を務めるのが常だ。
 先日もそうして相づちを打っていると、話の中身にどうも引っかかる。「S銀行から保険を乗り換えるように勧められているんだけど、断ったら悪いような気がして。前のはもう増えないからって言うのよ」。
 まさに前夜まで取り組んでいたのが保険特集。しかも勧められているのは外貨建て一時払い保険ではないか。問題点を示そうとしたが手が回らなかった。
 某保険会社の説明会で担当者は「もちろん為替リスクはあります」とのたまった。ただでさえ心配性の母に、為替という厄介事を増やしたくない。父の遺したお金を「置いておければいいの」という母の思いに低金利下で沿うには、口座手数料の方がましではないか。

 

(『週刊エコノミスト』2018年12月25日号 編集後記)

言葉を失う風景

 フェイスブックの写真にあぜんとした。台風21号が西日本に大きな被害をもたらした直後、9月6日のことだ。兵庫県西宮市のビーチリゾートががれきに覆われている。
 投稿した斉藤健一郎さんは、9月11日号の「会社を買う売る継ぐ」特集でレストラン事業を引き継いだ実例としてお話を伺った方だ。6年前にこのエリアに出した2号店がヒットし、周辺にも店が増えて人気スポットとなった。記事掲載の御礼を伝えたばかりだった。
 斉藤さんは復興に向けてクラウドファンディングを呼びかけ、最終的に350万円が集まった。活動報告によると、各地からボランティアが集まり、重機持参の人もいたようだ。
 東日本大震災の際もそうだったが、何か事があった時、すぐ動くことができる人には尊敬の念がわく。自分は、胸を痛めるばかりだからだ。せめて、この欄で記しておく。

 

(『週刊エコノミスト』2018年10月23日号 編集後記)

言えなかった言葉

「私は息子に継いでくれと言えなかったんですよ」。6年前、62歳で死を前にした父が、病床を見舞った私の夫に問わず語りにつぶやいた。
 実家は静岡で緑茶の製造卸小売業を営んでいた。父の死とともに事業を畳み、自宅1階の店舗はがらんどうでシャッターが下りたまま、隣接する工場は貸し倉庫になっている。
 妹の私はお気楽なものだが、長男である兄は就職後に継ぐことを考える節目が何度かあったようだ。父と兄のやりとりを知る由もないが、冒頭の言葉で父の思いに初めて触れた。自分の代で事業を大きくしたものの、緑茶の市場縮小や、兄がグローバル企業で仕事に打ち込んでいることがあったのだろう。
 次号に向けた事業承継の取材で、息子や娘が新事業を展開したり、別の経営者が引き継いだりする潮流を知った。父が生きていたら、違う道があっただろうか。

 

(『週刊エコノミスト』2018年9月4日号 編集後記)