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11月2日 自己決定 

11月2日
自分の声が響くのが気になると耳鼻科へ。漢方を処方される。

原因は痩せて、鼓膜の筋肉が薄くなっているためで、根本的に治すには太るしかないという。そして、症状を和らげるための漢方を出すことも出来ますが、どうしますか?と聞かれる。

父はしばし逡巡した末、お願いします、と答えた。

毎食前に、粉薬を一包飲むことに。母は、やっと薬が減ったのに、なんでまた増やされるの?とプリプリしていた。

末期と診断された後、薬の量が一気に増えた。まず痛みを緩和するための飲み薬(医療用麻薬)、それは胃に負担なので胃薬、腸の働きも鈍るので便秘薬、そして不安への対処として睡眠薬、神経系の薬――。それぞれ飲むタイミングも違う。入院して、鎮痛麻薬が飲み薬から刺しっぱなしの針からの注射に変わったので、だいぶ薬が減っていた。

でも、どうしますか?と聞かれたら、要らない、とは言いにくいだろう。少しでもよくするために何か出来ることがあればしたいところ。尋ね方が、飲んでも飲まなくても変わらないような感じではあるものの。

実際、飲んでも飲まなくても、それほど変わらないのかもしれない(その後、あまり変わらないと父も言っていた)。それなら、薬を出さないでほしい。それでも出すのなら、本人に尋ねないでほしい。飲んだらよくなる、という心理的な効果が薄れるから。

薬を飲むというのはけっこう負担である。飲み込むこと自体もそうだし、いつ、どれを飲むかを管理することも。

そして、どうするのか尋ねられることも負担である。

最近では、医療者が情報や選択肢を提供し、患者が自分で判断すべき――という流れのようで、それはあるべき姿ではあるのだろうけれど、自己決定にはエネルギーが要って、体力とともに気力も衰える患者にはなかなかに難しい。なかには元気な患者もいて、その人たちが大きな声を上げてきたからそういう流れなのだろうけれど、そうではない人たちには負担だ。それなのに、自己決定という正しさの前に、声を上げる気力もない。

最低限、いやなことを拒否する権利さえ確保されていれば、あとは基本は医療者に任せていいのではないか。自分で決めたい人は、声を上げることが出来るのだから、そう求める人に例外的に対応すればいいのではないかと思った、ささいな耳鼻科での一幕だった。