キンドルで本を買ってみた

人の家にお邪魔すると、まず本棚を眺めてしまう。悪趣味かな、と思う。
自分の本棚を客人が見るときも、ちょっと緊張する。本棚は頭のなかの履歴のようで。
内田樹センセイに言わせると、積ん読本も含めて、本棚は「こうありたい自分、こう見せたい自分」だそうです。こういう本を読むような自分、という。
さらにこっぱずかしい。
けれど、本棚を並び替えたり、売る本を分けたりしていると、確かに他者目線もまじることに気づく。こんな本を買ってしまった、というやつを自分(=本棚)から消去してしまうところなんか特に。

だから、これよかった、というオススメではなく、これ買った、とやるのは未整理の本棚をそのまま見せるに等しいものがあるけど、目的はそっちじゃなくて、電子書籍について。

電子書籍革命」という特集を以前、経済誌で作ってから2年半。
昨年10月にようやくamazon電子書籍サービス、キンドルがはじまった。
2年半前には正直、何がどうなるのか、校了してもよく分からなかった(読者の皆さんスイマセン)。
すんごくざっくり両極を言うと、「電子書籍すごいぜ紙の本なんかなくなっちまう分からんやつ生き残れんぞ」というのから、「やっぱ紙には電子書籍にはない良さがあるんです電子は問題山積みじゃないですか」までそれぞれ頷けるようでいて腑に落ちなかった。
それはその後も変わらない。

いまのところキンドルで買ったのは3冊。
どうなるのか、どうするのがいいのかよく分からんのは3冊でどうこうなるものではないけれど、買ってみて感じたこと。

1.ロスト・シンボル(上中下)

私は秘密結社というのが好きで、ダン・ブラウンの出世作「ダ・ヴィンチ・コード」を読んでスコットランドのロスリン礼拝堂に行ってしまったほど。その後も彼の作品は文庫で読んでいたけれど、どうもワンパターンなのでほかは売り払った。
この「ロスト・シンボル」のテーマは秘密結社の真打ち、フリーメイソンゆえ、気になりながらも、買うのは躊躇していた。
それが昨秋、父の療養に付き添うという身動きがとれない実家での日々に、本に飢えるあまり、電子書籍初購入。キンドルのサイトのトップにあった。
家中寝静まった深夜や、実家との往復の新幹線とかではまって読んだけど、ワンパターンに磨きがかかっていて、最後まで読めばおしまい。読み返すことはないだろう。

値段は文庫と変わらず。中古に売るというのがない分は損だけど、手間とがさはない。
3巻分iPhoneで読むと、目がかなり辛い。

2.身の上話

NHKの夜ドラ「書店員ミチルの身の上話」の初回を見たら、どうにも先が気になってしまい、手元のiPhoneで即座にこの原作本を購入。夫が帰ってきて電気を消した布団のなかで読み切る。
思いついたその時に読めるのと、暗くても読めるのは電子書籍のメリットか。
途中からiPadで白黒反転にしてみたけれど、目が辛いことには変わらなかった。
電子ペーパーだから目が疲れないという電子書籍の専用端末がちょい魅力的に思えてくる。

3.ウェブで政治を動かす!

キンドル開始を知ったきっかけの本。
ツイッターで著者の津田大介さんがしきりに感想ツイートをリツイートしていて、そのなかで「ツイートのリンクから2クリックすればキンドルで買える」とあった。キンドルを使ってみたいのと、「政治家はメディアになれ」と主張している、という別の感想ツイートで内容が気になったのとでサンプルをダウンロード。
というのも、このところ「なんで政治家がメディアみたいになっているんだろう」と思うようになっていたので、それをよし、とする論って何を言っているのかなと。
サンプルをチラ見して気が進まず、放っておいたけど、あるところでこの「政治家=メディア」の話になり、いい加減な認識のまま本の話をしてしまったことに反省して購入。なので3番目です。
読んでない本のことを読んだかのように話すのって恥ずかしながらけっこうやってしまう。いかんと思いつつ、つい書評やなんかの記憶で口に上っちゃうし、話し始めるとひけなくなってしまう。
もうやめよう、と誓った割に、未だ読んでないです。

たった3冊で総括してみると、紙の本をとっておく、という感覚が強い旧世代の人間としては、まず電子書籍で買うのは読み切りの本のようです。その時、読むことを楽しむエンタメ本とか、とりあえず中身を知っておきたい資料本の類。これまでは図書館で借りるか、文庫・新書なら数百円だし売ればいいか、とやっていたのが置き換わる感じなのかな。

逆に、キンドルで買わなかった本。

1.人質の朗読会

小川洋子の珠玉の小説。
いっとき本を増やさない誓いを立て、図書館で探しながら、ひたすら文庫化を待っていた。
しかし、昨年アウシュビッツへの旅を前に「アンネ・フランクの記憶」を読んで以降、小川洋子にはまって、どうにも待ちきれずにエイッと単行本で購入してしまう。まず手に入れたことがうれしくて、なかなか読む時間を取れずに部屋の隅に積んであるのを眺めるのもわくわくした。そして読んでいる間も、読んだ後もすごく幸せでした。本棚に並べたのを見てもじんわりくる。

電子書籍は引用が簡単にできるのもいい、と言われるけれど、最後のページを本開きながら打ち込んでブクログ(読書サイト)に引用しました。写経、といってもキーボードだけど、そのまま文を書き写すのって、言葉をかみしめられていい。普段は本やサイトで気になった言葉を手帖に走り書きするぐらいだけど、丁寧に手書きすると、また違うのかなとも思った。

これがキンドルでも出ていたら、どうしただろうか。やっぱり紙の本で買っていただろうな。
紙の本より安かったりしたらどうだろう。うーん、それでも紙の本を持っていたい気がする。たたずまいもいい本だし。
そして、身のまわりのものを減らすとかで手放さなくなってしまったとしても、自分のどこかにはあるという感じがする。
どの端末からもクラウドで見られるというキンドル本以上に。

もはやキンドルについてではなく、単なるオススメになっている・・・。

本のたたずまいで一つ。
電子書籍は、端末が1つあれば、どころか、手持ちのスマホなりタブレットなりで、何万冊でも読めるのが売り文句。
それを見るにつけ思うのは、紙の本って、電子書籍で販売されている本の中身一つ一つに、中身を読むための紙というハードウエアがついた贅沢なものだということ。
単行本だとハードウエアも中身に合わせて凝っているし。ハードウエアを統一して単価が下がったのが新書や文庫。
生き残る紙の本は凝った装丁の本だという指摘はむべなるかなだけど、ハードウエアが何もなくても、それだけあれば読めるという本の偉大さは、電気も機械もネット環境も普通にある暮らしのなかでは分からないし、発揮しえないことなのかな。

2.仕事をするのにオフィスはいらない

ノマド論が盛んになった頃、冷めた目で見ていました。
自ら進んでフリーランスになったわけじゃなくて、環境により他の選択肢がなかった「やむなくノマド」の身としては、「やっぱりオフィスっていいな」と思うことしきりだったので。場所という意味でも、組織という意味でも。
その理由を挙げてみれば、単に自立心も自律心も持ち合わせていない、ということになってしまうので大きな声では言えない。
そんな偉くなくちゃいけないのかよ!いや、やっぱ一人でしっかりせんといかんよね・・・とひねくれた気持ちを抱えるなかで、この本が気になりました。いったいエライ人は何を言っているのか、と。

著者はITジャーナリストで電子書籍の論客でもある佐々木俊尚氏であるからにして、電子書籍でも出ていました。アマゾン登場前だったのでPhoneアプリとかで。
新刊で買う気はさらさらなく、かといってブックオフに通りかかるたび探すのも面倒だし、あるかどうかも分からないし、試しに電子書籍で買ってみるか、と何度か購入画面を開きながらも、結局踏み切れず。
意外に高い(新書798円のとこ600円)というのも大きいけど、突き詰めると「自分がこの本を買った」という履歴が残ることがイヤだったのだと思う。

いや、個人情報の扱いは厳しく管理されていて、誰が何の本を買ったのかがオープンになったり、当事者に知られたり、ということがないのはわかっています。
それでも買った記録は残るし(というか記録があること=その本が読めるということだし)、さらに引っかかったのは、佐々木氏が電子書籍論で、書き手と読者とのつながりを強調していたことが頭にあったのだと思う。
書き手がいて、読者たちは本のことをSNSを使って自分がつながっている人たちに発信する。読者たちのフィードバックを得て、書き手はまた著すというようなモデル。
電子書籍で買うという行為は、イコール佐々木氏のコミュニティの一部に参加するということに思えて抵抗を感じた。いや、そんなにつながりたくないし、と。
もちろんコミュニティの輪にも濃淡あって、中身だけ受け取るという外れたところのポジションもある(とたぶん仰ってる)。
さらに岡田斗司夫氏になると、コンテンツ自体はタダでばらまかれて、それを評価する人たちがメンバーとなってコンテンツの対価以上に差し出す、というモデルだった。

話がややこしくなってきた。
裏返してみれば、本屋でお金を払って買えば、私の手元にその本があるということ以外、なんら私とその本をつなぎあわせるものはないということ。
まったくの匿名の存在として、受け取ることが出来る。あるとすれば、書店員さんが顔みていることぐらいか。
初期のネット通販は、この「顔見られるのがイヤ」なニーズが大きかったのだろう(エッチ系とか)。
けれど逆に私は、流行り本が気になったり、まったくの資料本で共感できなかったりする本を買うのには、アマゾンに履歴が残ることにも抵抗を覚えていたので(関連本とか勧めてくるし)、電子書籍だとなおさら。
まぁ顔バレといっても、都会の大きな本屋だと、レジに顔見知りのおっちゃんやお姉さんがいる近場の店の比じゃないけど。

話はさらに飛んで、なんで電子書籍で買うのに躊躇したのかつらつら考えるなかで思い返したのは『日本の歴史を読みなおす』(網野善彦著)の一節。
これも「キンドルで買わなかった本」か。目からウロコというオススメで書店に平積みしてあったのを手に取った。

その一節を要約してみます。
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モノを商品として交換することは、ある時期までの社会では実現できなかった。人と人との間でモノが交換されること、つまり贈り物をし、お返しをするという行為が行われれば、人と人との関係はより緊密に結びついていかざるをえない。どうしたらモノは商品として交換されうるかといえば、特定の条件をそなえた場が必要で、その場が市場である。市場はその意味で、日常の世界での関係が切れた場として設定されてきた。市場は聖なる世界につながる場であると考えられていた。そこにはいると、モノも人も世俗の縁からは切れ、つまり「無縁」の状態になる。神の世界のもの、いわば誰のものでもないものになった時にはじめて、モノをモノとして交換することが可能になる。
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モノを商品として交換するのは特殊な状態である、というのが新鮮だった。
いまはそれが普通になっているから、逆に、人と人との縁を取り戻そうとか、お金がすべてじゃないだとか言われてるわけか。
買って応援する、とか、フェアトレードとか交換に意味をもたせることもそうだ。
電子書籍ソーシャルメディアとも相まって人との人とのつながりと関連づけて語られるのも、お金じゃなくて評価が媒介するという「評価経済」の提唱なんかも、文脈がつながった気がした。

そうした時に、単なるモノの交換、要はお金を使った交換という“特殊”なことのメリットも、もう一度捉え直されるように思う。
いってみれば、印刷が発展して紙の本が大量に流通するようになる前は、物語は口伝だったり、本を書き写したりしていたわけで、そこには人と人との関わりがある。ある本を、誰ともわからない一人として、対価を払って手に入れる、というのは極めて市場的な世界だ。
と同時に図書館のように、誰のモノ、という位置づけや対価なく享受できるのが本の面白いところ。古本流通の発達ぶりとか。
学生時代にはよく友人と家を行き来して、本棚を眺めては本を貸し借りした。
あれって返ってこなくても気にならなかったりする。
・・・おっと自分も気づかず誰かの本が本棚に並んでいたりして。