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3.広い空と鳥のさえずりと

赤レンガの建物のなかに展示がしてあるアウシュビッツ第一収容所から、バスで5分のところにあるのが第二収容所ビルケナウ。のどかな丘をこえていくと線路がみえて、ぱっと門が開けた。
線路は門のなかに吸い込まれていく。そして、収容所のなかをまっすぐ中央まで通っている。鉄道の引き込み線がひかれて、人々は列車に詰め込まれて運ばれてきた。

線路の両側には、見渡す限り、平屋のバラックが縦横きっちりそろって並んでいる。一部が煙突だけなのは、戦後の資材不足で板がはがされて持って行かれたからという。
先の方に木の茂みがみえるけど、ほかは全部、空。
入り口の門のうえと、ところどころに監視塔があって、あとは広い空。曇っていたけれど、空は高く感じた。
快晴の空を見上げたら、どんな心持ちがしたのだろうか。

線路に沿って、中央まで歩いて行く。
収容者はここで貨車から出され、選別された。
なかのバラックが建ち並ぶエリアに入る人。そうではない人。

さらにまっすぐ奥まで歩いて行く。線路も途切れた先、突き当たりには慰霊碑がたっている。両側にはガス室の跡。解放時にソ連軍に壊されたという。さらに茂みの奥にも2つある。
貨車を降りて選別されると(選別から外れると)、ここまで自分で歩かなくてはいけなかった。中谷さんは「この道を皆さんにも歩いてほしかったんです」と言った。

その道には草が茂り、黄色いタンポポのような花や白いヒナギクのような野の花が咲いていた。バラックの間にも。可憐な花々。当時も咲いていたのかは分からない。

第一から第三まであるアウシュビッツ収容所の所長、ルドルフ・ヘスは植物がとても好きだったのだという。第一収容所からすぐみえるところに所長官舎があって奥さんと5人の子と暮らしていたけれど、収容所から家の玄関まで、庭にして花で埋め尽くしていたという。女性収容者の労働としても花の栽培をさせていて、ガス室で殺すより、花の事業を軌道に乗せることの方がよっぽどしたかったとのだとか。

ヘスは収容所での事を「上からの命令だった」と言って、死刑前には子どもに「お父さんのようにだまされないようにしっかり勉強するように」と書き遺した。ベルリンにいたナチス幹部も「現場の暴走」と。
ヘスに限らず、収容所で管理していた人々には戦後も罪悪感がない一方、逆に囚人だった人の方が負い目を持っていて、トラウマが残ったりしたという。
彼らが本当に「従わざるをえなかった」「だまされた」なら、どんなに悔恨にさいなまされることかと思うので聞いて愕然としたが、逆に自分のなかで正当化でもしなければ、とても生き続けていくことは出来ないのかもしれない。

ガス室の入り口の階段に建つ。天井が抜け、崩れた土壁が積み重なっている。
まっすぐ地下に階段が続いていて、その先に服を脱いだ部屋、そしてガスが充満した部屋、死体から金歯などを抜き取った部屋、死体を焼いた部屋。
すぐそばの慰霊碑のあたりには、人がいるのに、不思議と耳には何も声が入ってこなくて、ただ、背後の木の茂みから鳥のさえずりだけが聞こえていた。

欧州中から運ばれてくるユダヤ人が第一収容所では入りきらなくなって、ビルケナウを作る。
ビルケナウには300棟、最大10万人が収容されていた。最初、レンガでつくって、おっつかなくなって木造になり、解放された時まで建築途中だった。収容所に運ばれてきた人々のうち、70〜80%はガス室に送られる。15歳未満だと問答無用で。多い時で1日数千人が殺され、総数はいろいろ取り沙汰されたすえ、今は110万人と推計されている。収容された人も、食事のカロリーは少なく(第一の方に1日分が展示してあった)、衛生状態も悪くて、2、3カ月働くと死んでしまっていた。

ガス室という方法は、銃殺などと比べて、ドイツ兵の負担を減らすためでもあった。ドイツ兵はマスクをかぶって毒薬のチクロンB(これも元は殺虫剤で、発注とかでもそう扱われていた)の缶をあけて、上の穴から入れるだけで、中の様子を見ることもない。実際に死体を焼いたりする作業は同じ収容者のユダヤ人がやらされていた。監視役も収容者から選ばれていたけど、同胞相手にドイツ兵よりも残虐になる監視役もいたというのが人間の怖いところ。それも分断の手段なんだろうけど。

なぜ、こんなことを行ったのか。
展示にあったナチス幹部の言葉にはユダヤ人排除は「ドイツ人を守るため」とあった。「今でもテロリストを拘束するといえば皆さん、納得するでしょう?」と中谷さん。
身体障害者精神障害者のガス室送りは、ドイツ人でも例外ではなかった。展示品には、収容者からはがした義足やコルセットが山とあった。

なぜ、こんなことを行ったのか、私はまだ不勉強だし、今でも分からないところはあるのだろう。
そして、どうすれば防げるのか。
中谷さんは、「誰か1人がささいな差別をして、便乗する人や傍観する人が動かしていく。だから便乗しないこと、そして差別的な言動を許さない環境を作ること」と言う。
でも私は、教育や雰囲気で差別を押さえ込むと、それは暴発するのではないかと思った。もっと根源的なところにアプローチしなければならないのではないか。
中谷さんは「人の心のなかまで変えることが出来るとは思っていない。単に押さえ込むのではなく、考えを十分に聞くことが大事」と言う。

話はそこで終わり、「根源を変えるのは確かに無理だし傲慢かもしれない」と納得はしたけれど、それでも引っかかった。「こういう考えダメ」という短絡的な形に陥ると、タブー視につながり、今度は、タブーがタブーだからこそ、支持されていくのではないかという恐れを抱く。現に、ホロコースト否定に刑事罰を課す国がある一方で、この旅行記を書くのにいくつか確認しようとネット検索をかけただけで、「ガス室ウソだった」という趣旨の記述が山ほどヒットするような状況も生まれているのだし。

予定の3時間を1時間弱オーバーして中谷さんのガイドは終わった。「余計なおしゃべりを挟んだもので」と仰ったが、それこそが見たもの感じたことから考えるよすがだった。「僕の言うことが正しいわけじゃないし、すぐに答えが出ないことばかり。だから考え続けてほしい」との言葉が残る。

グループの人々と別れて、もう一度、ビルケナウ収容所をゆっくりとひとめぐり。皆と来たときは出来なかったので、慰霊碑の前で改めて手を合わせた。
沖縄、広島はじめ戦跡とかでは「繰り返しませんから」という趣旨のことを祈ってきたのだが、「繰り返さない」ということは安易に誓えないのではないかと思えてきた。
ちっぽけな1人の人間だけど、せめて考え続けること、悔悟を失わないことを胸に刻む。