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2.想定外の賑わい

旅の主目的だったアウシュビッツの話を書いてしまわないとたぶん落ち着かないので、引き続き長々いきます。

アウシュビッツは、ポーランドの京都(・・・古都という意味です)、クラクフから電車/バスで2時間弱のところにある。

朝、バスターミナルに行くと、集まっているなかで日本人らしいのは1人旅の同年代風女性、若めカップル、リタイア後とおぼしき夫婦、我々。この7人がそのまま、アウシュビッツ唯一の日本人ガイド、中谷剛さんのチームでした。

バスはクラクフの街中を抜けて、しばらくは田舎道を走っていたけれど、目的地に近づくにつれ、民家が増えてショッピングモールもありと周りが賑わっていく。石掘っていたりと工業地っぽくもある。収容所は人里離れた荒野にあるようなイメージがあったから、着く前から戸惑った。

そしてバスが博物館の駐車場に着くと、ずらりと並ぶ観光バス(30台くらい)、入り口にはわんさか人だかり。一大観光地並でびっくり。6月の平日なのに。若い人が多く、学生の修学旅行のような団体も。

2つの戸惑いについて、中谷さんに聞いてみるとーー。

第一の街の栄え度。

アウシュビッツ(これはドイツ名。ポーランドではオシフィエンチム)にはもともとポーランド軍の兵舎があって、鉄道などインフラが整っていたことが選定の条件だった。博物館になっている第一収容所はナチスが兵舎を接収して転用したもので、映画とかの平屋バラックのイメージとは違う赤煉瓦づくりの建物が並ぶのはそういう理由(写真右)。しだいに占領地が増えて連行するユダヤ人が増えると収容しきれなくなり、近くに7倍の広さの第二収容所(ビルケナウ)を作る。
周囲の民家も接収され、ドイツ人将校が住んでいた。そして、一帯は名だたる大企業の工場が集まり、炭鉱もあって、収容者の労働力をタダで使う一大秘密経済特区だったという。

ずっとなんかひっかかっていた。収容所から出られないように管理されているはずなのに、なぜ「働くと自由になる」の文言を掲げたゲートがあるのか。そして、強制労働って何するのか。描写は土木工事っぽいけど、所内にそんなに工事需要があるとも思えない。
言われれば納得だけど、要は毎朝、周囲の民間工場へと働きに出て、夜に収容所に戻ってきていたというわけです。それでやっと映画「シンドラーのリスト」のストーリーが腑に落ちた。

クラクフには東欧最大のユダヤ人街があって、まずユダヤ人はそこから追い出されて川を隔てたゲットーに強制移住させられる。さらに郊外の収容所に入れられる。実業家・シンドラーは最初、郊外にユダヤ人から安く買った琺瑯の工場を構え、収容所のユダヤ人を安く使って儲けていた。でもだんだん気持ちが変わっていって、収容者をアウシュビッツに移送するから工場も近くに移せと言われた時には、「死のキャンプ」と言われていたアウシュビッツに彼らを行かせないために、故郷のチェコに工場を移すといって労働者たちを連れていく。

このシンドラー、一言でいって「山師」。
ナチス将校に賄賂を送り、うまく見逃させて収容者を自分の工場の労働者にしていく。上官と親しいようにうそぶき、ユダヤ人を連れて行こうとした兵隊を言うとおりにさせたりと、ハッタリをかましまくる。誰でも「熟練工」、子どもがアウシュビッツでガス室に入れられそうになるとに「この小さな手じゃないと砲弾の先まで手が届かないんだ。お前の手でできるのか」と兵士にすごんで、連れ戻す。実際はまともに砲弾を作らなかったというのに。

ユダヤ人を事業に利用していたこととかから、シンドラーと映画には批判も多いという。映画をみても、最初は儲けることだけ考えている。遊び人風だし、ナチス党員でもある。
でも、何かが彼を動かしたのだろう。目の当たりにした光景だったのか。

正義というと、こんなのおかしい、と言って敢然と立ち向かうことを指すのかもしれないけれど、ナチスに近いところでハッタリを駆使したがゆえに、巧みにかいくぐって命が助かったのも確か。
アンネの日記でも、隠れ家生活を支えた人々がいた。こっそり、まっすぐ助けた人たち。自分がその場にいた時、どんなふるまいをしたのだろうと突きつけられる。

ようやく第二の戸惑い、激混みぶりについて、ガイドの中谷さんの話。

この10年で来訪者は3倍、150万人に増えた。うち14〜25歳が70%。増えたのは、東西冷戦が終わって、ポーランドがEUに加盟して欧州に開かれたということが大きい。若いうちに見て感じ、考えることが大切という理念のもと、学生の(いわば)社会科見学も行われている。

そして欧州では、アウシュビッツの捉え方も変わっているという。
単に「ヒトラーが悪い」というのではなく、人々の根底に差別意識があり、多くの人が傍観していたことに目が向けられている。
そして、ユダヤ人に限定されない、異なる人々同士の共生を模索するよすがとして。
欧州では国境なきがごとし(パスポートコントロールもゆるい)で人が動いていて、欧州外からの移民も多いから、切実な今の問題のよう。

捉え方の変化には、情勢とともに、時間が経ったことも大きいのかもしれないと思う。
でも一方で、長らくガイドを務め、中谷さんのお手本でもあった収容所からの生還者の方が昨年亡くなったそうで、時間が経って、失われていくものもある。

収容所の公開は「墓地として、教訓として」という2つの目的からなされているけれど、追悼に訪れる元収容者や遺族のなかには、観光地化していることを快く思わない人もいるのだとか。
私もたくさん写真を撮ったけれど、どこか「いいのかな」という気はした。そのたび、「写真があれば思い出せるし、誰かにも伝えられる」と打ち消したのだけれど。

写真を撮るという行為は、観光という気分でなくても、「自分が行って見たところ」とおしなべて扱っていることは確か。それは戦跡や事件・事故現場とかとも共通する。
中谷さんから、唯一「ここは遺族の心情を考えて写真は遠慮してください」と言われたのは、収容者から刈り取った髪の毛が積まれたところ。
そして、ガス室の内部に入った時は、とてもカメラを向ける気になれかった。

それでも、いま載せる写真を探して見ていたら蘇ってくるものがあるので、写真を撮っておいてよかった・・・と正当化してみる。